乙宝寺 |
乙宝寺は奈良時代に婆羅門僧正と行基菩薩によって創建された古刹で、往時の本尊は行基上人本人が制作した大日如来像、阿弥陀如来像、薬師如来像の3躯が安置されていました。本尊は3躯とも国宝に指定されていましたが昭和12年の火災により本堂と共に焼失しています。婆羅門僧正は中国からの渡来僧で釈迦の左眼の舎利(遺骨)を祭った事から「乙宝寺」の寺号の由来となっています。平安時代には城氏、戦国時代には上杉家が庇護し、江戸時代初期には村上城主村上氏が篤く帰依し三重塔(国指定重要文化財)を寄進しています。奥之細道を製作した松尾芭蕉や弘法大師空海も乙宝寺を訪れて越後の名刹とされています。越後三十三観音霊場第26番札所。
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華報寺 |
華報寺は平安時代に弘法大師空海により創建された寺院で、当初は五頭山の山頂に五頭権現を祭る御堂だったと伝えられています。その後、領主である城氏の庇護の下で大きく発展し、鎌倉時代には数多くの支院、坊を擁するなど寺運が隆盛しました。その後、衰微しましたが、室町時代に入り、大安梵主(耕雲寺の住職)によって再興されました。中世は当地の地頭として就任した水原氏が庇護し、境内には水原氏の墓碑が建立されています。境内周辺からは繁栄当時の遺品が数多く発見され合計9点が新潟県指定文化財に指定されています。又、門前町は弘法大師空海が錫杖をついて湧出させたという出湯温泉の温泉街で、宿場坊が温泉宿を兼ねていたとされます。
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法音寺 |
法音寺は奈良時代に聖武天皇の勅願により当時の高僧として知られた婆羅門僧正と行基上人によって創建された古刹です。平安時代に領主となった城氏によって篤く庇護され乙宝寺、華報寺と共に領内三ヶ寺として大きく?栄しました。鎌倉幕府が成立すると城氏は幕府と対立した為、討伐軍が派遣され滅亡、庇護者を失い衰微しましたが、新たに地頭として就任した佐々木氏の庇護となり、その後裔である加地氏は総菩提所としました。戦国時代には新発田城主新発田重家が春日山城主上杉景勝と対立した際、加持氏は重勝方に与した為に没落し、法音寺も衰退しました。江戸時代に入ると俊賀上人が再興しています。境内には源頼朝の供養塔が建立されています。
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