新発田市(歴史)概要: 中世、新発田市周辺は鎌倉幕府の御家人佐々木盛綱の一族の新発田氏がこの地に土着し国人領主化支配しました。長く独立性を保ち力をつけてきましたが上杉謙信の時代になると従属関係になり有力家臣の1人となりますが謙信の跡継ぎ争いである"御館の乱"で、恩賞をめぐり景勝と対峙するようになります。新発田氏は織田信長や芦名氏の支援を得て乱を起こし新発田城が落城し新発田重家が自決するまで6年間続きます。
景勝が会津に移封すると、新発田城には溝口伯耆守秀勝が6万石で入ります。秀勝は関ヶ原の戦い時に直接戦いに加わらなかったものの旧上杉家家臣が起こした"上杉遺民一揆"を鎮圧した事で領土が安堵され新発田藩を立藩することが出来ました。
2代藩主宣勝の代で弟善勝に1万石を分知した事で5万石になりましたが新発田領内は湿地帯が多く新田開発に有利な土地柄で、歴代藩主は開発に力を入れたことで最終的には実高で40万石にも達したそうです。その為、文化面でも発達し藩主の別邸である五十公野御茶屋や廻遊式庭園である清水園が造営、管理され、米沢街道や越後街道、羽州浜街道の基点となった事で多くの物資が運び込まれ経済的にも発達しました。
その後、6代藩主直治の行った「享保の治」や8代直養の「安永改革」など名君を輩出し改革も度々行われましたが幕府への作事や火災などの災害が重なり次第に財政が窮迫していきます。幕末の折、11代藩主直溥の代になって、10万石へ高直しとなり家格が上がったものの更に財政が悪化する悪循環となりながら戊辰戦争に突入していきます。
新発田藩は当初から新政府側に与していましたが、周囲が奥羽越列藩同盟側の諸侯に囲われていた為、一端は同盟を承諾し新政府軍が上陸を確認してから恭順します。その後新発田藩は明治4年(1871)に新発田県となり同年に新潟県に編入されています。
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