・堀之内宿は三国街道の宿場町として成立した町です。
当地は交通の要衝だった事から南北朝時代に堀之内城が築かれる等軍事的にも重要視され、三国街道が開削される以前からも集落はあったと思われます。
江戸時代に入ると高田藩に属し、万治元年には交通の便を図る為に堀之内宿と浦佐宿に跨る難所に栃原峠を開削しています。
寛文年間に明石の浪人堀次次郎将俊が小地谷近郊に遷り住み、越後縮を開発すると、堀之内宿はその集散地として大いに栄えました。
寛永年間に高田藩が郡奉行の下に組制を敷くと、当地は堀之内組に割り当てられ、その統括の為、宮彦左衛門が大肝煎に任命され、武士と同等の名字帯刀が認められています。
宮家は「宮九」の屋号を掲げる越後縮等を取り扱う豪商で、文化人でもありました。
五代宮九左衛門は巨鳩坊を名乗り寛政5年には願主として芭蕉句碑を建立しています。
弟である宮徐々坊も俳人として知られ、弟子で縁戚関係だった鈴木牧之は「北越雪譜」の執筆者として当時の魚沼地方の民俗を世間に広めています。
享和3年に伊能忠敬が三国街道を測量した際には堀之内村名主である庄九郎家で休息をとっています。
慶應4年に行われた戊辰戦争の際には堀之内宿は新政府軍の宿所として利用され、願念寺と普賢寺には尾張藩や薩摩藩等が閏4月26日に宿泊し、翌日、長州藩と合流し小出島で会津藩と交戦しています。
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