三国街道: 与板城の城下町

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概要・歴史・観光・見所
与板城の城下町概要: 与板(新潟県長岡市)は中世、上杉家の重臣だった直江氏の居城本与板城の城下町として発展した町です。元与板城は上杉家の家臣だった直江景綱が天正年間に築いた山城です。信綱の代には上杉景勝の側近として上杉謙信の跡継ぎ争いである「御舘の乱」にも活躍しました。しかし、家臣争いの中、春日山城で暗殺され、同じく景勝の側近だった樋口兼続が婿養子となり名跡を継ぎました。兼続は、上杉家の執政まで上り詰め与板城下も繁栄しましたが、天正2年(1597)に景勝の会津移封に随行した為、元与板城も廃城となっています。

近世に入ると与板藩が立藩し、牧野家1万石(牧野康成・康道・康重)、井伊家2万石(井伊直矩・直陽・直員・直存・直郡・直朗・直暉・直経・直充・直安)と入り町割りを整備し現在の与板の基礎を固めます。歴代藩主は石高が低かった為、城郭が設けられず小規模の陣屋構で武家町としては大きく発展しませんでした。しかし三国街道の宿場町であると同時に信濃川舟運の拠点でもあった為、多くの物資が運び込まれ経済的に発展し"大坂屋三輪家"などの豪商を輩出しました。現在でも木造2階建、切妻、妻入、1階正面には「雁木」を備える町家が建ち並び往時の雰囲気が感じられます。

与板陣屋は基本的には単郭で背後以外の3方を水掘で囲い正面のみがさらに外堀を設けて2重とし、信濃川やその支流が天然の外堀となっていました。城下町は陣屋に近い部分が武家町で三国街道沿いには商家町が配され、街道も要所、要所に枡形が設けられ防衛上の工夫が見られます。6代藩主井伊直朗は大坂加番や奏者番を勤め天明元年(1781)には西の丸若年寄など幕府の要職を歴任した功により文化元年(1804)の城主格に就任し、藩主の帰国が認められる一方で参勤交代が義務付けられ経費が増大して、7代藩主井伊直暉の代まで、与板陣屋の城郭化の工事が順次進められました。与板藩は参勤交代が認められたものの大部分が北国街道を利用し、三国街道の利用は数回に留まっています。

戊辰戦争の際には本家筋である彦根藩(滋賀県彦根市)井伊家に従い早くから新政府軍に転じていた為、奥羽越列藩同盟の主力となった長岡藩(本城:長岡城)など越後諸藩から標的にされ与板城(陣屋)は早々に落城し多くの建物が焼失しています。残された遺構は大手門(高麗門)が本願寺新潟別院に、切手門(高麗門)が恩行寺の山門として移築され武家長屋(足軽長屋)が1棟残されています。又、城下町には直江家縁の徳昌寺や延喜式神名帳に式内社と記載されたという都野神社、大坂屋三輪家の別邸として建てられた楽山亭などの史跡が点在しています。街道沿いは建替えが進みましたが、一部で雪国の町屋建築の特徴である「雁木」が残されているものも見られます。

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与板城下
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与板陣屋(城)
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西本願寺別院
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