地蔵堂宿

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地蔵堂宿:略データ
・場 所・新潟県燕市地蔵堂本町
・概 要・当地は当初、越後国弥彦荘桜井郷狭村と呼ばれていました。

文治2年に西行法師が東大寺再建の勧進の為、源頼朝から授かった源氏所謂の「勝軍地蔵尊」が出現し、その御告げに従い、狭川の畔に一庵を設け、本尊として奉斎したそうです。

建保5年、上記の一庵を地蔵堂(願王閣)として現在地に遷し次第に信仰が広がると門前町が形成された事から永徳3年に地蔵堂町に改称しています。

名僧として知られる良寛和尚所縁の地で、13歳から18歳まで街道沿いに屋敷を構えていた中村家に寄宿しており、地蔵堂にあった漢学塾三峰館の儒学者で「北越四大儒」に数えられた大森子陽に師事しています。

中村家は良寛の父親の実家で、与板の新木家とは縁戚関係にあり、、当地有数の名家だったとされます。

三峰館は第四銀行がある交差点からやや地蔵堂(願王閣)寄り右側にある塚田薬局当りにあったとされ、明和7年から安永6年に大森子陽が鶴岡に移り住むまで子弟の教育に尽力しています。

江戸時代には西川沿いの村々から年貢米や特産物が新潟湊に運ばれる「蒲原船道」が重要視され、その舟運の拠点として地蔵堂をはじめ吉田や和納、巻、曽根等が賑わい、特に地蔵堂宿の米殻取引所は西浦原随一の規模を誇り大いに発展しました。

又、三国街道の宿場町でもあった事から寺泊港からの陸揚げ荷物を取り扱った米殻、鮮魚、雑貨商の問屋や、料理屋、飲食店、遊郭等が軒を連ねました。

明治3年に信濃川の分水路である大河津分水の工事が着工されたものの、明治政府は総工事費80万両のうち、60万両を地元負担とし、流域の住民が強制的に重労働を強いた為、大きな不満を抱える事となり、さらに、洪水防止で恩恵を受ける者がいる一方で、川の流れが変更する事で、不利益を被る者も多くいた事から明治5年には悌輔騒動と呼ばれる大規模な一揆が発生し、工事が中止に追い込まれています。

しかし、首謀者は数日後には捕縛され処刑、新潟県令である平松時厚は更迭され、工事が再開されたものの、結局明治8年に中止となり、明治40年に再着工し大正13年に竣工しています。

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