・渡部宿の入口付近に位置する小高い山は中世、渡部城が築かれていた所です。
永正の乱の際には長尾為景に与した夏戸城の城主志駄源四郎の支配下にあり、永正7年に上杉顕定と渡部城での攻防戦では勝利を収まています。
その後は黒滝城の支城のような役割を持っていたようで、天正6年に上杉謙信の死去により、後継争いとして発生した御館の乱では、上杉景虎に与した三条嶋城の神餘親綱が天正7年に渡部城を急襲しています。
その際、黒滝城の城主で上杉景勝に与した山岸秀能が対応し、見事、撃退に成功しています。
慶長3年に上杉景勝が春日山城から会津に移封になると渡部城には堀秀治に従った柴田佐渡守勝全が1万3千石で配されています。
当地も城下町として整備されたと思われますが、慶長7年に勝全と秀治の意見が対立したようで、勝全が渡部城を退去、慶長10年頃に渡部城は廃城となり、当地も三国街道の小規模な宿場町となっています。
城跡には渡部宿の鎮守である菅原神社が遷座し、江戸時代後期には良寛和尚が神官である粕川家に宿泊した際に、「天神の かみのみ坂ゆ 見わたせば み雪ふりけり 厳樫が上に」の歌を詠んだとされます。
宿場の一角に境内を構えている吉田寺は永正年間に黒滝城の城主である照田越前守吉伝が開創した曹洞宗の寺院で、伝承によると吉伝が仏教に帰依し出家すると、種月寺七世楽崇文詔禅師に師事、丹波国に穴穂寺を城内に遷しています。
吉田寺の開山は楽崇文詔禅師に懇願し、行基菩薩が彫刻したと伝わる聖観世音菩薩像を本尊として奉斎、吉次の名前から「吉次寺」と号したと伝えられています。
天文11年に照田常陸介が越後国守護代の長尾晴景に対し謀反を起したようで、天文15年には跡を継いだ長尾景虎から攻められ黒滝城は落城、天文22年に城内から現在地に境内を遷し再興、寺号を吉田寺に改めたとされます。
三国街道:宿場町・再生リスト
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