新潟県:歴史・観光・見所(ホーム)>良寛和尚・史跡

良寛和尚・史跡:一覧表

良寛堂
良寛堂【 概 要 】−良寛は江戸時代中期の宝暦8年(1758)に山本以南(妻:おのぶ、又は、秀子)の長男として生まれました。山本家は屋号「橘屋」を掲げる出雲崎を代表する旧家で、明確なものでも鎌倉時代後期に倒幕を画策した日野資朝が橘屋に滞在した事が記録されています。戦国時代には上杉家執政の直江兼続から出雲崎の名主に任命され以来、名主などの上役を歴任し木材の運搬などで多いいに繁盛しました。当地は、山本家「橘屋」の屋敷跡で、大正11年(1922)に佐藤吉太郎氏の協力により良寛堂が建設されました。 ・新潟県
・三島郡
出雲崎町
・石井町

光照寺
光照寺【 概 要 】−良寛は安永元年(1772)15歳で元服し、橘屋と出雲崎の名主を継ぐべく見習いの途中でしたが、安永4年(1775)18歳で突如として光照寺に入り出家、良寛と名乗りました。出家した理由は不詳ですが、名主は政治や人間関係により人の善悪だけで采配出来ない場合が多く、特に当時は天候不順により凶作や疫病が多く、世情が不安定だったにも関わらず、名主として非常な決断を強いる事が良寛には無情に感じたのかも知れません。良寛は安永8年(1779)まで光照寺で修行を重ね、22歳の時に玉島(岡山県倉敷市)の円通寺に移りました。 ・新潟県
・三島郡
・出雲崎町
・尼瀬

国上寺
国上寺【 概 要 】雲高山国上寺は和銅2年(709)に天香山命(越後国一宮である弥彦神社の祭神)の御神託により開かれたと伝わる古刹で、越後国(新潟県)最古の寺院とされます。奈良時代に入ると孝謙天皇の勅願寺となり、その命により泰澄大師により境内が整備されました。国上寺は平安時代には慈覚大師円仁から再興され、戦国時代には春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信から10万石の格式を与えられ、往時は130余ヵ寺に及ぶ末寺擁し繁栄しました。良寛が国上寺を訪れたのは寛政9年(1798)40歳の時で、麓に設けられた住職の隠居所である五合庵で生活しました。 ・新潟県
燕市
・国上

五合庵
五合庵【 概 要 】五合庵は江戸時代中期の貞享年間に国上寺を中興し、隠居した際に設けた草庵で、毎日五合の米を国上寺から支給されていた事から「五合庵」と呼ばれるようになりました。良寛が国上寺を訪れたのは寛政9年(1798)40歳の時で、麓に設けられた住職の隠居所である五合庵で生活しました。享和2年(1802)45歳の時に五合庵を退出し、文化元年(1804)47歳、又は文化2年(1805)48歳に五合庵に戻ってきています。文化13年(1816)に再び退出し、さらに麓にある乙子神社の草庵に移っています。現在の建物は大正3年(1914)に再建されたもので、新潟県指定史跡に指定されています。 ・新潟県
・燕市
・国上

乙子神社草庵
乙子神社草庵【 概 要 】乙子神社が何時頃に勧請されたのかは判りませんが、国上寺と同様に弥彦神社と関係が深く、天香山命の末子(乙子)である建諸隅命が祭られている事が由来となり「乙子神社」と称するようになったとされます。良寛が乙子神社草庵に住み始めたのは文化13年(1816)59歳の時で、国上寺五合庵が老朽化し、乙子神社草庵よりも高所にあり生活に不便だったからとも云われています。文政2年(1819)には長岡藩9代藩主牧野忠精が訪れ良寛を長岡城下に呼び寄せたい旨を伝えたところ「焚くほどは風がもてくる落葉かな」と発し丁寧に断ったとされます。良寛は約10年間、乙子神社草庵で過ごし、文政9年(1826)69歳の時に退去し、島崎の草庵に移っています。現在の草庵は当時の形状に近いように再建されたもので新潟県指定史跡に指定されています。 ・新潟県
・燕市
・国上

西生寺
西生寺【 概 要 】海雲山西生寺は奈良時代に名僧行基によって創建された名刹で、平安時代末期に寿奎上人により現在地に再興されました。鎌倉時代には越後に流された親鸞上人、室町時代には即身仏となった弘智法印、江戸時代初期には松尾芭蕉も西生寺を訪れています。良寛が西生寺を訪れたのは享和3年(1803)46歳の時で、約半年間当寺で生活を行っています。良寛は西生寺時代に「弘智法印像」の漢詩(弘智法印の即身仏に感銘を受けて詠んだもの。)や「梅の木の花盗人」の長唄(友人である原田鵲斎の奇行を詠んだもの。)を残しています。 ・新潟県
長岡市
・寺泊野積

密蔵院(照明寺)
密蔵院(照明寺)【 概 要 】照明寺(密蔵院)は寺泊に境内を構える寺院の中で屈指の名刹とされ、平安時代後期の承2年(1047)栄秀和尚によって開かれました。戦国時代には上杉謙信(春日山城の城主)からも庇護を受け、江戸時代には将軍綱吉の娘の眼病平癒の祈願を行い、榊原政倫が堂宇の造営を行っています。良寛が照明寺を訪れたのは享和2年(1802)45歳、文政10年(1827)70歳、文政12年(1859)72歳の3回で、境内に設けられていた密蔵院で生活していたと伝えられています。現在の建物は昭和33年(1958)に再建されたものです。 ・新潟県
・長岡市
・寺泊片町

徳昌寺
徳昌寺【 概 要 】徳昌寺は良寛縁の寺院としても知られ、父親の実家が与板だった事から度々与板を訪れ、三輪家や維馨尼などと交流を重ねました。 ・新潟県
・長岡市
・与板町

宝塔院
宝塔院【 概 要 】宝塔院は性鑁法師が貞観元年(859)に創建した寺院で、良寛和尚が修行したと伝えられています。良寛和尚は宝塔院29世隆全和尚と関係が篤く、現在の三条市を震源地とした三条大地震が発生し甚大な被害を被ると、それを心配した良寛和尚は度々手紙を出し、その状況を確認しています。・新潟県
・三条市
・東裏館

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