長岡城の城下町概要: 長岡(新潟県長岡市)は牧野家7万4千石の城下町として発展した町です。元々は慶長10年(1605)、藩主堀直竒によって城下町の建設計画が始まり、掘家が移封後も元和4年(1618)に入封した牧野忠成が事業を受継ぎ概ね元和8年(1622)に完成しています。長岡城は赤川と内川を外掘に見立てた城郭で城の周辺には武家屋敷が配され、大手口から内川にかけては商人町、街道沿いには職人町によって城下町が形成されていました。この事から藩庁(行政、軍事)が置かれた城下町、信濃川の支流を引き込んで物資の集積場としての商人町、それらの物資を日本海側、内陸に分配する舟運の拠点となった川湊町、新潟やその他に通じる交通の要衝としての宿場町などの要素が重なりあい長岡は大きく発展しました。戊辰戦争時では新政府軍と長岡城を巡る攻防戦を展開し北越戦争最大の激戦地とされ城下町は大きな被害を受け往時の様子は略消滅し(新政府軍に対立した事から長岡城は徹底的に破却されたとされ、石垣の一部が資料館の敷地内に移設され、三重櫓の外観が復元されています)、その後は近代化として画一的な街区が計画された為、長岡城を始め当時の町割りなども大きく変更されました。
長岡城・縄張: 長岡城は主要部以外は土塁が主体の梯郭式の平城で、本丸(東西43間、南北53間)を中心に東側には詰丸(馬出:東西22間、南北51間)、西側には二ノ丸(東西45間、南北51間)があり、それらを北・西・南側をコの字型で取り囲むように三ノ丸が設けられ、さらに外側に外郭があり土塁と水掘で囲んでいました。又、城下周辺には大河である信濃川をはじめ、柿川(内川)や栖吉川、赤川などが複雑に流れ、平城ながら天然の要害を成していました。本丸には北西隅に天守の代用となった三重櫓(御三階)の他、二重櫓が5基、本丸御殿、二ノ丸との間には枡形門が設けらていました。二ノ丸には藩庁など長岡藩の施設、南西と北西隅に二重櫓が設けられていました。詰丸の北東には三重櫓が設けられ、長岡城全体では城門が17門が設置されていました。その他に城内には蒼柴神社(祭神:牧野忠辰、その後悠久山に遷座)や稲荷神社(二ノ丸跡地に城内稲荷として遷座)、八幡神社(その後城下に遷座)、藩校である崇徳館などが設けられました。
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