椿沢寺(見附市)概要: 秘密山椿沢寺は新潟県見附市椿澤町に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。観音堂の創建は和銅年間(708〜715年)、行基菩薩(奈良時代の高僧)が巡錫で当地を訪れた際、川上から椿の霊木が流れ着き、その霊木から三尺五寸の千手観世音菩薩像を自ら彫り込み安置したのが始まりとされます。椿沢寺は大同2年(807)に善光寺(長野県長野市)で四十八夜念仏修行を終えた常尊上人が、阿弥陀三尊像を自ら彫り込み開山し観音堂の別当寺院として祭祀を司るようになっています。
康元元年(1256)に鎌倉幕府5代執権最明寺(北条)時頼により越後三十三観音霊場第十六番札所に選定されると寺運が興隆し最盛期には2千石を領し七堂伽藍の大寺院として境内には8カ寺を擁していたそうです。戦国時代になると上杉謙信(関東管領、越後国守護、春日山城の城主)の祈願所として庇護され、謙信も何度も祈願に訪れ、寺領の安堵だけでなく枕屏風、仏画、陣銅羅、茶がめなどを寄進しています。謙信の後を継いだ上杉景勝は春日山城(上越市)から鶴ヶ城(福島県会津若松市)、米沢城(山形県米沢市)と移転した為、庇護者を失い椿沢寺は一時衰退しますが宝永3年(1706)に再興され現在に至っています。
椿沢寺の境内には長岡藩(藩庁:長岡城)の藩主牧野忠成の異母弟牧野秀成のものと伝わる墓碑が建立されてます。伝承によると秀成は藩主である牧野忠成よりも人望の厚く優秀な人物だった事から、秀成を擁する派閥が発生し、それが原因で藩内で家臣同士の亀裂が生じ、秀成は寛永6年(1629)椿沢寺に幽閉され寛永14年(1637)に自刃、又は暗殺され当寺に葬られたと伝えられています(秀成が死去後、長岡藩内で不幸が続いた為、祟りと悟り越後国一宮弥彦神社の十柱神社を創建し御霊を祀ったところ不思議と不幸が治まったそうです)。
椿沢寺山門は寄棟、鉄板葺、三間一戸、八脚単層門。本堂は木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造白漆喰仕上げ。観音堂は木造平屋建て、入母屋、鉄板葺、妻入、桁行3間、梁間3間、正面1間向拝付、外壁は真壁造板張り。札所本尊である千手観世音菩薩像は秘仏とされ住職在任中一度だけの御開帳になっています。寺宝には上杉謙信が寄進した品々など数多く所蔵しています。越後三十三観音霊場第十六番札所(札所本尊:千手観世音菩薩・御詠歌:椿沢 やちよをかけて 祈るから 心の花も さかりひさしき)。越後薬師霊場第10番札所(札所本尊:薬師如来)。山号:秘密山。宗派:真言宗智山派。本尊:三尊阿弥陀如来。
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