見附城概要: 見附城の築城年など不詳ですが、戦国時代に入ると三条長尾家の有力家臣だった丸田右京之助の居城だったとされ、その後も丸田家の管理下にあったと思われます。当地は栃尾と三条を結ぶ街道筋にあたり、軍事的拠点として見附城を中心に周辺には小栗山城、大面城が築かれ複合的城郭として機能していました。
天正6年(1578)、上杉謙信が死去すると、上杉景勝と上杉影虎が後継の座を巡り対立し、景勝が春日山城、影虎が御館に立て籠もり領内を2分する争乱になった事から「御館の乱」と呼ばれました。
当時の見附城の城主、丸田掃部助俊次は影虎に組した為、天正7年(1579)、影虎が鮫ヶ尾城自害に追い込まれると劣勢に立たされ見附城に籠城、天正8年(1580)、上杉景勝に攻められ落城しています。その後は景勝の家臣島倉孫左衛門が820石が与えられ当地に配されていますが見附城がどうなったのかは不詳。何れにしても景勝が慶長3年(1598)に会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると廃城になったと思われます。
見附城は標高117.5mの城山山頂に築かれた中世の山城で、頂上部に設けられた主郭は南北約80m、東西約30mの規模で主郭を取り囲むように腰郭が配され土塁や空堀、堀切、鋸歯をした畝型狙塞が設けられました。
基本的に単郭に近く規模も小さいですが、中世の城郭の遺構として貴重な事から昭和60年(1985)に見附市指定史跡に指定されています。麓には越後八十八カ所霊場第58番札所の総持寺が境内を構え、見附城に至る道筋には西国三十三霊場の本尊を模した石仏が安置されています。
見附城:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-見附市教育委員会
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