【 概 要 】−牧野秀成は牧野康成(大胡藩主)の2男、牧野忠成(長岡藩初代藩主)の異母弟とされる人物です。忠成は元和4年(1618)に長峰藩(新潟県上越市)から長岡藩(新潟県長岡市)に移封となりましたが、実際に藩庁である長岡城に入ったのが寛永7年(1630)の事で、その間約11年間、康成によって政務が行われました。
康成の生母は不詳ですが、忠成の生母は家臣である九里賢久の妻、又は妾との間に生まれたとされ、さらに忠成の気性は荒く、粗雑だった事から、長岡藩初期の基礎を築き、温厚で人望があった康成を支持する派閥が形成され、家臣団の対立が鮮明になったとされます。
ただし、この御家騒動は幕府に露呈する事がなく、忠成の御国入り直前に康成は粛清され寛永6年(1629)には文殊院正徳寺(新潟県新潟市:現在の巻神社)、その後、椿沢寺(新潟県見附市)に幽閉され、寛永14年(1637)に暗殺、又は詰め腹を切らされたと伝えられ、秀成の派閥を形成した主要な家臣18名も与板(新潟県長岡市与板町)に流されています。椿沢寺の境内には牧野秀成のものと伝わる墓碑が建立されています。法名:冷光院殿昌誉覚了幻心居士。
秀成の死後、同月に忠成の嫡男光成が死去、これにより光成の嫡男忠盛(後の忠成)と忠成の3男で与板藩(新潟県長岡市与板町)の藩主牧野康成、4男で三根山領主(新潟県新潟市:後の三根山藩)、寄合の牧野定成との間に御家騒動が勃発しました。
長岡藩では余りにも不幸が続いた事は秀成の祟りであると恐れ、元禄7年(1694)に3代藩主牧野忠辰が弥彦神社(新潟県弥彦村:越後国一宮)の境内に五所宮(現在の十柱神社)を創建し、牧野秀成、牧野保成、神戸赤左衛門、宮内卿女、大己貴命を祭神として篤く奉祭したとされます。五所宮の創建の経緯から秀成以外の3名も牧野家によって犠牲になった人物と推測されますが、明治時代初頭にこの4柱は排除、新たに9柱が勧請合祀され社号を十柱神社(弥彦神社末社)に改めています。
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