五合庵(燕市)概要: 五合庵は新潟県燕市国上に位置する国上寺の境内にある草庵です。五合庵は良寛和尚が寛政8年(1796)から乙子神社の草庵に移るまでの約20年間住んだ場所と言われています。良寛は江戸時代後期の曹洞宗の高僧で、越後国出雲崎(現在の新潟県三島郡出雲崎町)出身、歌人、漢詩人、書家として知られ、円通寺(岡山県倉敷市玉島)での厳しい修行を終えると、全国各地に在する名僧と交流を持ち、後年は越後国蒲原郡国上村(現在の新潟県燕市)に移り住みました。良寛は国上寺阿弥陀堂建立に尽力を尽くした功で万元上人から毎日五合の米と草庵を与えられたとされ、「五合庵」の名称の由来となっています。又、別説では人間は一日に米5合食べれば生きていけるとして農家から貰い受けた事が「五合庵」の由来とも云われています。五合庵での良寛の暮らしは、全ての権力や硬い考え方から離れた自由のもので、一日中書を学ぶ時も一日中子供と遊ぶ時も常に充実した日々を過したとされます。
良寛和尚にとって、五合庵の生活が仏教とは難しいものでは無く常に生活に密着するものとの悟りに行き着いたとされ、民衆にも難しい説法を避け、解り易い言葉や表現にする事で多くの人達から共感を得る事が出来たと云われています。乙子神社に移り住んだ文政2年(1819)には長岡藩9代藩主牧野忠精が訪れ、良寛を長岡城下に呼び寄せたい旨を伝えたところ「焚くほどは風がもてくる落葉かな」と発し丁寧に断ったとされます。
五合庵は寄棟、茅葺の小庵で4.5畳くらいの居室に広縁を足した程度で玄関も庇が付いていますが独立性もなく、まさしく草庵といった印象を受けます。現在の五合庵は大正3年(1914)に再建されたものだそうでが当時の雰囲気が感じられます。五合庵は良寛縁の史跡として貴重な事から「良寛修業地」の名称で昭和27年(1952)に新潟県指定史跡に指定されています。
五合庵:上空画像
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