牧野忠精:概要

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概要・歴史・観光・見所
牧野忠精(蒼柴神社)

【 概 要 】−牧野忠精は宝暦10年(1760)、長岡藩(新潟県長岡市)8代藩主牧野忠寛と長姫(俊光院:大岡忠光の娘)との子供として生まれました。明和3年(1766)、忠寛の死去に伴い牧野家の家督を継ぎ、長岡藩9代藩主に就任しています。明和4年(1767)、飢饉が続いた事で新潟湊を利用する船や商品が減少し商人達が困窮していたにも関わらず、例年通りの御用金を課した事から新潟町奉行所と商人達の間で争乱が発生しました。初戦に勝利した商人達は一時新潟町を占拠し、長岡藩から米千俵を勝ち取ったものの、代表者と目された涌井藤四郎と腹心の須藤佐次兵衛が市中引き回しの上斬首されています(新潟明和騒動)。

牧野忠精の時世には自然災害が頻繁に発生しており、安永7年(1778)の大雨では長岡城下が洪水となり2名が溺死しています。天明元年(1781)の大雨では左近の土手が決壊し長岡城下が浸水し家屋840戸が被害を受け12名が溺死、藩内では6万5千石余の損失を被っています。寛政元年(1789)の大雨では長岡城下が浸水し家屋585戸が被害を受け4名が溺死、藩内では6万6千8百石の被害を被っています。これらの災害は農家にとって大きな負担となり寛政3年(1791)には藩内9カ村が連名で負担軽減を求める嘆願書を提出しましたが、藩はその願いを受け付けず、中心的な人物と目される浦村組頭権左衛門を捕縛し獄門に処しています。

文政11年(1828)に発生した三条地震は推定マグニチュード6.9、震源地付近最大震度7の大地震で、長岡城の多くの建物が大破し、藩内でも442人の死者を出し数千軒の家屋が潰れ田畑も荒廃しています。天保元年(1830)には炭村一揆が発生し御用炭の負担軽減や売炭の自由化、充炭値段の値上げなどを求め、天保2年(1831)には長岡藩が要求を略認めています。長岡藩は財政再建を図る為、質素倹約や御用金の賦課、借知を行うも、藩内の五か組の割元は郷中困窮救済を求める11か条の要望書を提出しています。

文化5年(1808)に長岡藩の家臣山本老迂斎の書堂(学問所)を受け継ぐ形で藩校となる崇徳館を開校、老迂斎が師事した古義学の伊藤仁斎の曾孫となる伊藤東岸と、荻生徂徠派の古文辞学の秋山景山を招いて都講に任命しています(天保元年:1830年には長岡藩江戸藩邸にも就正館を開校させています)。崇徳館の中には古義学と徂徠学の講堂が両立し、寛政2年(1790)に幕府が発令した寛政異学の禁で古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図り朱子学を中心とした儒学を奨励した事には反しています。天保2年(1831)死去、享年72歳。

牧野忠精は社寺の保護も行い、特に長岡城の城内に牧野忠辰を祭る蒼柴神社を遷座する為に三官山(悠久山)を整備し天明元年(1781)に社殿を造営、寛政12年(1800)には一の鳥居を寄進しています。文政2年(1819)には領内巡視の途中に国上寺の境内に設けられた五合庵から乙子神社に移り住んだ良寛和尚を訪ね城下に寺院を創建し迎えたいと懇願したものの良寛は「焚くほどは風がもてくる落葉かな」と発し、その意を汲んだ忠精は「見渡せば山ばかりなる五合庵」と返したとの逸話が残されています。

蒼柴神社:写真
牧野忠精と縁がある蒼柴神社 牧野忠精と縁がある蒼柴神社 牧野忠精と縁がある蒼柴神社 牧野忠精と縁がある蒼柴神社
乙子神社:写真
牧野忠精と縁がある乙子神社 牧野忠精と縁がある乙子神社 牧野忠精と縁がある乙子神社 牧野忠精と縁がある乙子神社



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