【 菩提者 】
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耕雲寺は阿賀北衆と呼ばれた周辺国人領主が領内に菩提寺を持っていなかった時代の菩提寺として機能した寺院です。創建は応永元年(1394)、本庄顕長が傑堂能勝禅師を請じて開かれたとされますが当初の外護者は不詳、その後一時荒廃し寺領などの管理が出来なくなり永享元年(1429)には農民から略奪されるという事態に陥り、永享2年(1460)には越後国守護職の上杉房朝の裁定により寺領の半分が認められ一応再興されています。それでも尚、不安定な状況でしたが色部朝長が寺領を寄進するなど徐々に寺領の回復が行われました。文安元年(1444)には本庄房長が耕雲寺の境内に移春庵を造営し、一族の法要が度々行われるようになり、同じく鮎川氏や、色部氏一族も法要が耕雲寺で行われています。戦国時代に入り、国人領主達の領土経営が確立するようになると領内に菩提寺を創建する事が常となり、文明2年(1470)には5世徳嶽宗欽が竹俣氏の菩提寺「宝積寺」、永正6年(1509)には8世固剛宗厳が加地氏の菩提寺「香伝寺」、大永7年(1527)には8世固剛宗厳が鮎川氏の菩提寺「普済寺」、天文元年(1532)には10世大仲玄甫が色部氏の菩提寺「千眼寺」、天文9年(1540)には11世三心宗伊(開山者は師である大仲玄甫を勧請)が本庄氏の菩提寺「長楽寺」などを創建しています。又、耕雲寺からは数多くの名僧を輩出し、応永10年(1403)には傑堂能勝が「慈光寺」を中興開山、応永20年(1420)には顕窓慶字が「雲洞庵」を中興開山、文安3年(1446)には南英謙宗が「種月寺」を創建し、「耕雲寺」、「慈光寺」、「雲洞庵」、「種月寺」は越後四ケ道場と呼ばれ越後国曹洞宗寺院に大きな影響を与えました。江戸時代には村上藩(村上市・藩庁:村上城)の庇護となり寺領150石が安堵され10万石の格式が認められています。
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