【 菩提者 】
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林泉寺(上越市)は明暦6年(1497)、当時の越後守護代である長尾能景が父親長尾重景の17回忌の追善供養の為、曇英恵応を招いて開山した曹洞宗の寺院です。以来、歴代長尾家の菩提寺として庇護され、上杉謙信も幼少の頃に林泉寺に入り天室光育から学問を学び大きな影響を受けたとされます。慶長3年(1598)、上杉景勝が会津領120万石で移封になると代わって豊臣秀吉の家臣、堀秀治が30万石で越後に入封し林泉寺は堀家の菩提寺として再整備されます。秀治の跡を継いだ忠俊は幼少で執政だった堀直政が死去すると御家騒動を招き改易、その為、林泉寺境内には堀秀重、秀政、秀治の墓碑と位牌が移される事なく残されています(忠俊は改易先である福島県いわき市平字胡摩沢の長源寺が菩提寺)。松平家時代も菩提寺になっていたようで高田藩主は埋葬されていないようですが藩主である松平光長の嫡男で次期藩主候補だった松平綱賢の墓碑が建立されています。綱賢の死去に伴い跡継ぎ争いが激化し所謂「越後騒動」が勃発し5代将軍徳川綱吉の裁定により高田藩(藩庁:高田城)は改易は改易となっています。榊原家の時代には領内菩提寺だったようで、初代藩主榊原政永の父親で姫路藩3代藩主だった榊原政岑(8代将軍徳川吉宗に反発し意図的に遊行に耽ったとされ、強制的に隠居させられ、政永も事実上左遷にあたる高田藩移封となった。)と3代藩主榊原政令の3男である榊原政賢(政礼、一時常陸谷田部藩主細川興祥の養子になるも廃嫡となり高田藩に帰参)が葬られています(藩主は江戸の菩提寺である霊巌寺に埋葬されています)。又、林泉寺の総門(室町時代後期から江戸時代初期建築、茅葺、四脚門、上越市指定文化財)は春日山城の搦手門を移築したものと伝えられています。
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