直江津港(上越市)概要: 直江津は古くから越後国府が設置されていた所とされ、五智国分寺や居多神社(越後国一之宮:諸説有)など由緒ある社寺が点在する地域です。親鸞が上陸した地とも言われ、周囲に国府別院など親鸞縁の史跡が多く点在しています。古代の朝廷が整備した官道の1つである北陸道が通り、江戸時代の宿場町にあたる駅(水門駅)が設置されていた事から古くから要衝として開発が進み、室町時代に編纂された「義経記」でも直江津の地名が見られ当時の港湾都市として発展していた事が窺えます。室町時代末期に編纂された「廻船式目(海洋法規集)」には安濃津(三重県津市)・博多津(福岡県福岡市)・堺津(大阪府堺市)・三国湊(福井県坂井市)・本吉湊(石川県白山市)・輪島湊(石川県輪島市)・岩瀬湊(富山県富山市)・今町湊(直江津:新潟県上越市)・土崎湊(秋田湊:秋田県秋田市)・十三湊(青森県五所川原市)と共に三津七湊に数えられ、日本国内では10指の港湾として認められていました。
このような背景から直江津は越後国の中心都市として国府や守護所なども当地にあったとされ戦国時代には春日山城を詰め城とし、直江津には城主の居館と政庁を兼ね備えた「御館」が築かれ事実上政治の中心となりました。
上杉謙信が死去すると後継者争いとなった「御館の乱」は春日山城に立て籠もる上杉影勝(謙信の甥)と御館に立て籠もる上杉景虎(北条氏康の子息)との戦いとなり直江津一帯も戦場になったと思われます。
慶長12年(1607)、当時の領主堀秀治は春日山城が中世の山城で政治的、経済的には不便であった事から直江津に新たに福嶋城が築き、城下町として整備しています。
跡を継いだ堀忠俊の時代に完成し藩庁を福嶋城に遷し福嶋藩を立藩、引き続き港町や商家町としても機能していた事から大きく発展したと思われます。
後に高田城に移されますが北陸道と北国街道が整備され、交通の要所、北前船の寄港地として重要視され高田藩の外港として経済的な発展を遂げます。
居多神社−居多神社が何時頃勧請されたのは判りませんが、越後国が立国する以前から有力神社だった気多大社(石川県羽咋市・能登国一宮)の祭神である気多神の分霊が祭られたと推定され、社号の「居多=こた」は、「気多=きた」が転じたとも言われています。
旧境内地である身輪山(身能輪山)は大国主命が居多ヶ浜に上陸後、宮殿を設けた地とされ、同じく大国主命が祭られている大神神社(奈良県桜井市)の御神体である三輪山の名称を転じたとも云われています。
大国主命は身輪山の宮殿に奴奈川姫命(新潟県糸魚川市に鎮座する奴奈川神社の祭神)を妻神として迎え、建御名方命(長野県諏訪地方に鎮座する諏訪大社の祭神)が生まれたとしています。上記3柱の他、事代主命を含めて4柱が居多神社の祭神で、当初、祭られていたと思われる気多神は消息不明となっています。
その後、居多神社は弥彦村に鎮座する弥彦神社と共に越後国の神社の中で最高位となり歴代領主から注視される存在となっています。慶応2年(1866)に身輪山(身能輪山)が崩落しそうになった為、現在地に遷座しています。
五智国分寺−五智国分寺は奈良時代に聖武天皇が各国一宇ずつ設けた国分寺の後継寺院です。寺号は平安時代初期の高僧でる弘法大師空海が越後国分寺を訪れた際、五智如来を勧請して納めた事に起因しているとされます。鎌倉時代初期には、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止を受け、親鸞聖人が当地に配流となり、国分寺の境内に竹之内草庵を設けています。
一般的な国分寺は朝廷の衰退と共にしましたが、当寺は室町時代中期頃まで寺運が隆盛していたようで、万里集九が五智国分寺が広大な境内を有していた事を著書である「梅花無尽蔵」に記しています。戦国時代に入ると争乱などにより衰退していたようで、上杉謙信により現在地に五智国分寺が再興されています。
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