・福島城は慶長7年に春日山城の城主である堀家によって築かれた近世の平城です。
慶長3年、上杉景勝が会津に移封になるとそれに代わって堀秀治が45万石で春日山城に入りました。
上杉家の執政の直江兼続は年貢米を全て会津に引き上げる禁じ手を行った為、財政が逼迫した堀家は上杉家所縁の社寺や土豪の領地を取り上げ補填した事から、それに不満を持った旧勢力との対立が顕著となりました。
慶長5年に行われた関ヶ原合戦の際には上記の不満分子が一斉に蜂起し所謂「上杉遺民一揆」が発生、堀家はその対処に追われ、一揆の掃討には成功したものの、大きな功績を挙げる事が出来ず本領安堵に留まっています。
春日山城は中世の山城だった事から、政治や行政を行う上では不向きで旧勢力との決別の意味もあり、慶長5〜6年頃から交通の要衝で、舟運や海運の拠点となりうる福島城の築城が開始されました。
慶長11年に秀治が死去すると、嫡男である堀忠俊が家督を継ぎ、引き続き、築城工事を引き継ぎましたが、幼少だった事から実際は家老である堀直政が藩政や工事の指揮を執っています。
慶長12年に福島城が完成すると、春日山城から本城を遷し、その城下町にあった社寺や商人達も福島城下に遷ったと思われます。
しかし、慶長13年に直政が死去するとその後継を巡って直政の長男である堀直清と、坂戸藩主堀直寄が対立、慶長15年にその騒動が幕府に知る事となり、御家騒動により改易となっています。
代わって松平忠輝が75万石で入封しましたが、福島城は関川、保倉川、小町川の河口に位置した事で洪水が頻発し、さらに海岸線に近く、日本海の荒波が耳障りで安眠出来なかった事から新たな城が計画されました。
実際は大坂の豊臣家に備え、巨大な城郭が必要だったものの、福島城は海と川に囲われ、これ以上の拡張が臨めなかったからかも知れません。
慶長19年に高田城が完成すると、福島城は廃城となり、福島城の城下町は町毎高田城下に移転した為、跡地は荒廃しました。さらに、近代に入ると工業団地の造成や小学校開校等により、次第に遺構が失われ、現在その姿を見る事が難しくなっています。
新潟県:城郭・再生リスト
|