三条嶋城

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三条嶋城:略データ
・場 所・新潟県三条市下須頃
・築城年・伝:平安時代後期
・築城者・伝:三条左衛門
・城 主・三条左衛門、池氏、長尾高景、山吉大炊介久盛、山吉能盛、山吉孫次郎豊守
・山吉景長、神余親綱、甘粕近江守長重、堀直清
・構 造・平城
・文化財・−
・指定日・−
・概 要・三条嶋城が何時頃に築城されたのかは不詳ですが、伝承によると平安時代後期に三条左衛門が築いたと伝えられています。

前九年合戦で、安倍貞任が源頼義に敗れると、安倍家の家臣だった黒島兵衛が当地まで落ち延び、三条嶋城を攻め落としたとされます。

その際、三条左衛門の奥方が武器を調達しようと各地を駆けまわったものの、結局見つからず、三条嶋城も落城してしまった事から、その教訓として城下近くで武器が製造出来るよう三条金物が起こったと伝えられています。

鎌倉時代末期頃から、当地域は越後池氏の支配下に入った事から、当時に三条嶋城が存在していた場合は、何らかな拠点として利用していた可能性があります。

南北朝の動乱の際、池氏は南朝方に加担、建武3年には島崎城に籠城し北朝方の色部高長や加地景綱等と攻防戦が行われ落城、敗北を喫しています。

池氏は延元2年にも北朝方と激突し、興国2年には宗良親王を寺泊に迎える等活躍しましたが、正平5年に観応の擾乱が発生すると、足利尊氏方に転じています。

その後、越後国守護代長尾景忠の弟である景恒の三男である長尾高景は新左衛門尉の蒲原代官を継承し、三条嶋城に入って守護代となり、その後裔が守護代長尾家を相続しています。

応永年間の城主は山吉大炊介久盛で、越後国守護職の上杉房朝と守護代の長尾邦景との対立では、守護代方に味方した事から、守護方の中条房資や黒川基実、加地氏、新発田氏等から三条嶋城を攻められ、落城寸前まで追い詰められましたが、守護方に離反が相次ぎ、落城は免れています。

応永33年にも中条氏や加地氏、新発田氏等から侵攻を受けましたが、再び敵方の内部分裂で危機を脱しています。

永正4年に「永正の乱」が発生すると山吉能盛は越後国守護代長尾為景に味方し、永正7年には敵方の関東管領上杉顕定と三条要害で交戦しています。

山吉孫次郎豊守は上杉謙信の重臣として活躍し、特に諸大名等の外交面で重きを成し、上杉家中最大の軍役を担っています。

天正5年に豊守が死去すると嗣子が居なかった事から弟である景長が継いだものの、木場城に移封となり、代わって神余親綱が三条嶋城に配されています。

天正6年に上杉謙信が死去すると、その後継を巡り「御館の乱」が発生、親綱は上杉景虎方に味方した為、上杉景勝方の黒滝城を攻撃、逆に天正8年には景勝により三条嶋城が攻められ、一度は撃退したものの城内に内応者が出た為、落城となり親綱も自刃に追い込まれています。

その後、三条嶋城には景勝の重臣である甘粕近江守長重が配され、新発田重家の乱では景勝方の戦略的拠点として利用されています。

慶長3年に景勝が会津に移封になると、三条嶋城には堀直清が配されています。慶長5年に発生した関ヶ原合戦では、本家と共に東軍に属し、上杉遺民一揆に対応しています。

慶長13年に直清は5万石に加増され、本家堀家の執政に抜擢されましたが、慶長15年に弟との政争に敗れ改易となり三条嶋城も廃城となっています。

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