新潟宿概要: 飛鳥時代頃までは大和朝廷の勢力圏内は弥彦神社(新潟県弥彦村)が鎮座した弥彦山が境界線でしたが、大化3年(647)に新潟県新潟市東区付近に渟足柵が築かれ当地域まで勢力が拡大されました。渟足柵はその後、沼垂城と名称を変え少なくとも奈良時代までは当地域の中心的な施設として機能し北陸道も延長され多くの人々が住み着いたと思われます(木簡が発見され養老年間:717〜723年の銘が記されています)。これに伴い、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社が各所の創建され、信濃川の河口には蒲原津湊が築造され海運にも開発が及びました。中世に入ると蒲原津湊他、沼垂湊、新潟津などが整備され、さらに重要性が高まると度々争奪線が繰り広げられました。
戦国時代には春日山城の城主上杉謙信が信濃川と阿賀野川の河口域を掌握し物流の拠点として整備しましたが、天正6年(1578)謙信が死去すると、上杉家の家督を巡り「御舘の乱」が発生、上杉景勝が勝利を収めたものの、恩賞を巡り新発田城(新潟県新発田市)の城主新発田重家との対立を招き天正9年(1581)に今度は「新発田重家の乱」が発生しています。重家は経済的な拠点となる信濃川と阿賀野川の河口域を掌握し、新潟城(現在の白山神社境内付近と推定)を築城、天正11年(1583)には上杉景勝の侵攻を見事撃退しています。
しかし、景勝は豊臣秀吉の後ろ盾を得ると反転攻勢を仕掛け天正13年(1585)に新潟城は落城し、天正15年(1587)には新発田城も落城し乱が平定されています。江戸時代に入ると信濃川舟運と阿賀野川舟運の発達と北前船の寄航地として飛躍的に発展し、長岡藩では新潟奉行所を設置して最大限に重要視し、多くの商人達からの御用金により藩の財政を大きな割合を占めました。しかし、9代藩主牧野忠精の時世の明和5年(1768)には御用金を巡り長岡藩(藩庁:長岡城)と商人との間に新潟明和騒動が発生し、商人達が一時新潟町を掌握し自治が行われています。
新潟町が幕府から重要視されるようになると天保14年(1843)には天領となり新潟奉行所が設置され、安政5年(1858)の日米修好通商条約により開港五港の一つに指定されています。戊辰戦争の際には物資流通の拠点となった為に長岡藩(本城:長岡城)をはじめ奥羽越列藩同盟が逸早く掌握しましたが、新政府軍の激しい攻防戦の末に新政府軍側に落ち、これにより長岡城が孤立化し落城が早まったとされます。明治にはいると本格的に外国船の受け入れが始まり、明治3年(1870)には県庁が設置されています。現在でも新潟県議会旧議事堂や旧新潟税関庁舎などが残され往時の名残が感じられます。
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