【 概 要 】−新発田重家は天文16年(1547)に新発田綱貞の次男として生まれ、当初は五十公野家の養子となり五十公野治長と名乗っていました。新発田家、五十公野家共に上杉謙信に従い、度々信州や関東へ従軍し功を挙げ、次第に家中の中でも重要視されるようになりました。天正6年(1578)、上杉謙信が死去すると、2人の養子である上杉景勝(長尾政景の子)と上杉景虎(北条氏康の子)が跡目を巡り対立する所謂「御館の乱」が発生し家中は両陣営に別れ領内は争乱状態となりました。
重家は兄で新発田家宗家を継いだ長敦と共に景勝方に与し大きな戦功を挙げた中、天正8年(1580)、長敦の死去により重家が新発田家を相続します。御館の乱は新発田兄弟の活躍などにより景勝が勝利、しかし、論功行賞は近習の家臣にあつく、新発田家には行なわれないどころか一部領地の割譲が求められ、上杉家との対立が深まります。
そのような中、天正9年(1581)、越後侵攻を画策していた織田信長や蘆名盛隆、伊達輝宗などと好を通じ、それを後ろ盾にして上杉家から離反し反乱、所謂「新発田重家の乱」が勃発します。乱の終結には実に7年の年月が費やされ、景勝との直接対決では何度も勝利し領土の拡大を果たし、景勝の単独では平定が困難な状況となりました。
ところが、天正10年(1582)の本能寺の変で信長が自刃すると、挟撃を画策していた信長の家臣である柴田勝家や森長可、滝川一益が自領に引き上げ、蘆名家と伊達家が争乱となり、さらに天正15年(1587)味方の寝返り、上杉軍への豊臣家の支援などが重なり、ようやく居城である新発田城が落城され重家も自刃しています。
上杉方から見ると重家は重罪人だった為、菩提は祀られる事はありませんでしたが慶長3年(1598)に上杉家と入れ代わりに新発田藩主となった溝口秀勝は、菩提寺である福勝寺(新発田市)境内に墓碑を建立し篤く供養しています。享年41歳、戒名「前因州太守一声道可居士」。
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