弥彦神社(越後国一宮)

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概要・歴史・観光・見所
弥彦神社概要: 弥彦神社は新潟県西蒲原郡弥彦村弥彦に鎮座している神社です。弥彦神社の創建は不詳ですが古くから越後国一宮として広く信仰を集めた古社です。祭神の天香山命は、当初は「伊夜比古神」と称し越後国を開発し、漁業、製塩、農耕、酒造などの技術を人々伝えたとされ、その遺徳を偲び弥彦山の山頂に祀られるようになり、和銅4年(711)に社殿が造営されたと伝えられています。天香山命は天照大御神の御曾孫で尾張国造家の祖神であることから大屋彦命や大彦命を祀っているとも推察されますが、社伝では天香山命は神武東征で大功があり越後開拓の命を受けたとされ、基本的に天香山命と伊夜比古神は同一視されています。

【 弥彦神社の祭神の考察 】−弥彦神社(新潟県弥彦村)は越後国の一之宮として知られていますが、祭神の天香山命には多少違和感を感じます。まず父神の饒速日尊ですが、瓊々杵尊(ニニギノミコト)より先に天孫降臨を行い、神武天皇の東征の際には河内の豪族と思われる長髄彦は饒速日尊を天孫として奉じて行くてを阻んでいます。結果的に饒速日尊は家臣であるはずの長髄彦を見捨て神武天皇に降伏していますが何とも後味の悪い結末を演じています。平安時代に成立した日本の史書である先代旧事本紀の中の「天孫本紀」によると、天香山命は御子神として饒速日尊の天孫降臨に随行し、紀伊国の熊野邑(和歌山県新宮市)に居したとされ、多くの史書で天香山命は尾張氏らの祖や尾張連の祖、尾張連らの遠祖と表現され高倉下と同神とされます。高倉下は「古事記」や「日本書紀」の神武東征の中で神武天皇が熊野で苦戦を強いられた際、窮地を救った神として描かれていますが、それが事実であれば、父神の饒速日尊に先んじて神武天皇に手助けした事になります。

又、尾張氏は名前の通り、尾張地方の有力な豪族でその後裔は熱田神宮大宮司を代々務めている事から、客観的な資料から見ると、天香山命と越後国(現在の新潟県)とは関係が無いように推察されます。あくまで、弥彦神社の由緒ですが、天香山命は神武天皇即位四年に越後に遷るように命じられ、越後国の野積の浜(現在の新潟県長岡市)に上陸し、越後国を平定すると様々な産業を伝授し崇敬されるようになったとされ、現在でも弥彦神社の周辺には高倉下の後裔とも思われる高倉姓を名乗る家が複数存在しています。このように、現在残されている資料と、弥彦神社の由緒にはちぐはぐな点がある事から、元々の弥彦神社は別の神が祭られていたとの説があります。

1つの説としては大彦命が挙げられます。日本書紀によると崇神天皇10年に大彦命を北陸に派遣したとあり、古事記にも崇神天皇の御代に大毘古命(大彦命)を高志道(北陸道)に派遣されたとあります。もし、天香山命が越後国を平定していたならば、今更大彦命を派遣する必要は無く、当時の北陸地方は朝廷の支配下にはなかったと推察されます。それでは大彦命が弥彦神社の祭神なのかというとやはり疑問があります。

それは、大彦命は現在の新潟県新発田市から秋田県に到る日本海側と福島県の会津地方に鎮座する古四王神社に祭神として祭られている例が多く、朝廷が新潟県の北部以降に侵略した際に意図的に祭ったような印象を受けるからです(岩手県には同音の胡四王神社が鎮座していますが、こちらは、政治的な意図と言いうよりは俘囚の人々が好んで祭ったと思われます。青森県や宮城県には目立った古四王神社は無いと思われます)。大彦命は越後国に関係が深いですが、主として古四王神社に祭られている事から、弥彦神社の主祭神としては違和感があります。大和朝廷は大化3年(647)に古代の城柵である渟足柵(推定地:新潟県新潟市)を翌年の大化4年(648)に磐舟柵(推定地:新潟県村上市)を築いている事から、古四王信仰は7世紀以降に始まったと考えられ、弥彦神社はそれとは異なる神社だったと思われます

【 弥彦神社の社格 】−飛鳥時代の大和朝廷の日本海側の版図は弥彦山付近だったと想定され、必然的に信仰の対象となり、海運業者や漁業関係者からも航路上の目印として神聖視されたと思われます。弥彦神社が何時頃から祭られているのかは判りませんが、上記のように政治的な配慮、又は、弥彦山自体が古代から霊山として信仰されその延長上に社が設けられたのかも知れません。格式も高く「続日本後紀」によると天長10年(833)に名神に預かり、「続日本紀」によると承和9年(842)に従五位下、「日本三代実録」によると貞観3年(861)に従四位下に列し、延長5年(927)にまとめられた延喜式神名帳に記載されている越後国54社の中で唯一弥彦神社だけが名神大神の格式を持ちます。

ただし、越後国一宮は諸説あり、越後国府の近くに鎮座した居多神社(新潟県上越市)と、新潟県糸魚川市一の宮に鎮座する天津神社がそれぞれ一宮を主張し大和朝廷の版図が広がる毎に信仰の対象が変わったようにも感じ興味深いところです。飛鳥時代には越国の国境が弥彦神社が鎮座していた弥彦山だったと推定され、弥彦山自体が神山として神聖視され、古代の官道である北陸道の最終駅である「伊神駅」は現在の弥彦神社の門前町付近だったという説もあり、政治的にも重要な土地柄だった事が窺えます。大化3年(647)に、現在の新潟県新潟市東区付近(明確な場所は不詳)に古代の城柵である渟足柵が築かれると、越後国府(新潟県上越市付近)から渟足柵まで北陸道が延長されたと思われます。日本最古の万葉集(7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂)にも弥彦神社を詠んだと思われる歌が2首(「伊夜比古おのれ神さび 青雲のたなびく日すら 小雨そぼ降る」、「伊夜比古 神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむ皮衣きて 角つきながら」)あり中央にも弥彦神社の名声が広がっていたと思われます。

【 伊神駅 】−古代の官道である北陸道が開削されると、越後国には、滄海駅(新潟県糸魚川市青海)八疋、鶉石駅(新潟県糸魚川市鶉石)五疋、名立駅(新潟県上越市名立)五疋、水門駅(新潟県上越市直江津)五疋、佐味駅(新潟県上越市柿崎町)五疋、三嶋駅(新潟県柏崎市)、多太駅(新潟県柏崎市・刈羽村)五疋、大家駅(新潟県長岡市)五疋、伊神駅(?)2疋、渡戸駅(?)船二疋の駅馬が設置され、その内の伊神駅は弥彦神社の祭神の伊夜比古神(天香山命)との、名前の類似性から弥彦神社の付近に設置されていたとの説があります。馬が置かれた駅家としては越後国の最終駅となり、大和朝廷の版図にも符合しますが、そう簡単でも無く、上記のように駅家が記載されてるのは平安時代に編纂された延喜式である事から、当時の朝廷の版図は秋田城(秋田県秋田市)にまで至り、秋田城までは東山道であったにせよ、その間には渟足柵(新潟県新潟市東区)や磐舟柵(新潟県村上市)なども設置されていた事から北陸道が延長されていた可能性もあります。又、隣の駅家である渡戸駅は船が置かれている事から、湊(港)町だった事が推定され、さらに馬が置かれていなかった事から、隣地には伊神駅が置かれ、この2駅で1つの駅家を形成していたとも考えられる事から、伊神駅は渡戸駅の推定地である寺泊港付近の可能性もあります。

【 弥彦神社と領主 】−中世に入ると弥彦神社は歴代の領主や権力者の崇敬を受け、鎌倉幕府初代将軍源頼朝から社領3千貫の寄進があり、境内地がある弥彦荘の領主で幕府の御家人だった小国氏や池氏、黒滝氏は弥彦神社の神職にも名を連ねました。建武2年(1335)には後醍醐天皇の勅額が奉納されるなど篤い庇護を受け、室町時代の弥彦神社は広大な社領以外に蒲原郡内の港津の津料徴収権を持ち経済的にも発展しました。しかし、その権益を巡り越後国守護職の上杉家と対立、境内の前には弥彦城(桔梗城)が築かれ、弥彦山の左右うには小国氏の居城である天神山城や、池氏(山岸氏)の拠る黒瀧城などが配されましたが、上杉房定は小国氏や池氏(山岸氏)などを支配下に入れ、弥彦神社も次第に厳しく統制される事になります。戦国時代には春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信(輝虎)が崇敬し関東、信州、越中侵攻の際に戦勝祈願の願文を奉納、特に武田信玄との川中島の戦いの際には有名な「武田晴信悪行之事」と記された願文が有名で、そこには関東出兵は関東管領の役職を全うする為で、それを阻害した武田信玄とはやむを得ず戦いに及び多くの犠牲者を出した事に悔やみ、念願成就(武田信玄と北条氏康の掃討)した際には今まで以上に神仏に帰依し建物の修復や造営、領地の寄進を行う事が記載され、謙信(輝虎)の正当性を主張すると共に弥彦神社が信仰の中心だった事が窺えます。

江戸時代に入ると高田藩(新潟県上越市・藩庁:高田城)の藩主松平忠輝(徳川家康6男)が社領5百石を安堵し、徳川家康から賜った砧青磁袴腰香炉(新潟県指定文化財)を弥彦神社に奉納しています。砧青磁袴腰香炉は元々中国南宋時代に製作されたものですが、寛元4年(1246)に蘭渓道隆(鎌倉建長寺開山)が南宋から渡来した際に当国に持ち込まれ、その後、鎌倉幕府将軍に献上され、徳川家康、松平忠輝に渡ったと云われています。長岡藩領になっても引き続き庇護され、元禄7年(1694)には長岡藩(新潟県長岡市・藩庁:長岡城)3代藩主牧野忠辰が牧野家一族4柱(その内の1柱である牧野康成は初代藩主牧野忠成の異母弟で、人望が厚かった事から担ぎ出す派閥が形成され、御家騒動に発展する前に粛清されました。幽閉先の椿沢寺で死去すると、牧野家に不幸が立て続けに起こった為、祟りを恐れて五所宮に祀られる事になったと伝えられています。)を祭る五所宮(現在の十柱神社)の社殿を造営し、門前町(北陸街道の宿場町でもある)も神域として認めた為、大きな収入源となっています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により弥彦神社として独立、明治4年(1871)には国幣中社に列し、明治11年(1878)には明治天皇北陸御巡幸の際は参拝に訪れています。

【 北陸道・門前町 】−近世の北陸道は北国街道とも呼ばれ、諸説あるもの中山道の宿場町である鳥居本宿(現在の彦根市鳥居本)から分岐して近江国(滋賀県)、越後前国(福井県)、加賀国(石川県)、越中国(富山県)を経由して越後国(新潟県)に至る経路で、終着点は新潟港(新潟県新潟市)とも念珠関(山形県鶴岡市)とも云われ、弥彦神社の門前町は宿場町の1つとして整備されました。北陸道は参勤交代で利用されなかったものの物流や人の交流が盛んになった為、宿場町としても重要性が高まりました。数多くの文人墨客も利用し、元禄2年(1689)7月3日には奥ノ細道で弥彦神社に参拝した松尾芭蕉も北陸道を利用し門前町で宿泊しており、特に、江戸時代中期以降に一般庶民にも行楽嗜好が高まると、数多くの人が弥彦神社に参拝で訪れるようになり門前町も活況を呈していたと思われます。又、門前町の一角には湯神社が鎮座し、文献からも当時は温泉が湧き出していたとされますが、その後枯渇し、昭和に入ってから再び源泉を発見して弥彦温泉として温泉街が形成されています。門前町には弥彦神社神社の別当寺院だった神宮寺の末寺宝光院越後弘法大師二十一カ所霊場第13番札所、境内背後に「婆々杉」)や、新潟県指定天然記念物に指定されている「蛸ケヤキ」、親鸞聖人縁の「親鸞聖人清水」などの史跡が点在しています。

【 弥彦神社の社殿と社宝 】−明治45年(1912)、弥彦神社の門前町から出た火災に類焼し多くの社殿が焼失し、大正5年(1916)に新潟県が社殿の設計を東京帝国大学教授伊東忠太工学博士に依頼し再建されています。その際造営された社殿群(建築物・構造物25件:本殿、本殿と幣殿の渡り石廊下、本殿周囲透塀、幣殿、祝詞舎、拝殿、神饌所、伺候所、草薙神社、今山神社、乙子神社、狛犬、舞殿、楽舎、参集殿、斎館、神木石棚、二之鳥居、手水舎、神符授与所、絵馬殿、一の鳥居、制札台、石橋、鼓楼)は比較的新しい建物ですが、近代神社建築の規範になるものとして平成10年(1998)に国登録有形文化財に登録されています。社宝も多く源義家や源義経、上杉謙信等の武具が伝わり中でも志田大太刀(応永22年志田三郎定重が奉納、刃渡2.2m)と大鉄鉢(嘉暦元年相次郎孝基が奉納、高さ34.5cm、口径59cm)は国指定重要文化財に指定されています。例祭である燈籠神事(国指定無形民俗文化財)は古式に則って行われる神聖なもので周辺の集落から神輿が渡御し、県内各地から大灯籠、小燈籠が奉納され、一社伝来の秘舞と伝わる舞楽(神歌楽・天犬舞・太々神楽・小神楽:国指定無形民俗文化財)が厳かに舞われます。弥彦神社が鎮座している弥彦山は雪彦山(兵庫県姫路市:賀野神社)、英彦山(福岡県・大分県:英彦山神宮)と共に日本三大彦山に数えられています。

弥彦神社の御祭神
 ・ 天香山命(伊夜比古大神)

弥彦神社の御利益
 ・ 家内安全・商売繁昌・交通安全・厄除け・工事安全

弥彦神社の文化財
十柱神社(弥彦神社境内社)-元禄7年,茅葺,妻入-国指定重要文化財
・ 志田大太刀-応永22年-刀工家盛作,刃渡り220.4p-国指定重要文化財
・ 鉄仏餉鉢-嘉暦元年-高さ39p、口径54.4p,縁厚約1.2p-国指定重要文化財
・ 弥彦神社燈篭おし(燈籠神事)と舞楽-7月25日奉納-国指定無形民俗文化財
・ 双鶴巴文鏡−室町時代−国認定重要美術品
・ 砧青磁袴腰大香炉-南宋時代-高さ15p,口径2p-新潟県指定文化財
・ 大太刀-室町時代-三家正吉作,長さ220.4p、反り9.4p-新潟県指定文化財
・ 鏡鞍附壷鐙-鎌倉時代-伝:八幡太郎源義家奉納-新潟県指定文化財
・ 上杉輝虎祈願文-永禄7年-出兵理由と戦勝祈願-新潟県指定文化財
・ 弥彦神社文書(1235点)−鎌倉時代〜江戸時代-新潟県指定文化財
・ 弥彦神社の社殿(25件)-大正5年-伊東忠太設計-国登録有形文化財

弥彦神社(越後一ノ宮):写真

弥彦神社の境内正面に設けられた一の鳥居と石造社号標
[ 付近地図: 新潟県弥彦村 ]・[ 弥彦村:歴史・観光・見所 ]
弥彦神社の境内を流れる御手洗川と石段 弥彦神社の境内を流れる御手洗川と玉ノ橋 弥彦神社の玉ノ橋は向唐破風屋根に朱色の太鼓橋 弥彦神社に流れる御手洗川に架かる石橋
弥彦神社参道石段から見る二の鳥居 弥彦神社参道石段から見上げる随神門(神社山門) 弥彦神社随神門(神社山門)から見る境内 弥彦神社境内から見る拝殿正面と背後の弥彦山
弥彦神社拝殿全景左斜め前方 弥彦神社境内に設けられた神楽殿 弥彦神社の境内に鎮座してる境内社群 弥彦神社境内に設けられた鐘楼と梵鐘

弥彦神社:歴史的建造物

十柱神社十柱神社
・十柱神社は弥彦神社末社で元禄7年(1694)長岡藩3代藩主である牧野忠辰によって創建された神社です。明治時代に入り改め祭神を大幅に変更して現在の形式が採られました。社殿は当時からのもので国指定重要文化財。
一之鳥居一之鳥居
・弥彦神社境内の正面に位置し、ここを堺に聖域(境内)と俗世との境としています。門前町からは丁度真正面にあたり象徴的な存在となっています。現在の鳥居は大正5年に再建されたもので高さ8.4m、柱間約6m、国登録有形文化財。
石橋石橋
・石橋は一之鳥居に入った直ぐの所に位置し御手洗川に掛けられています。名称の通り、この川に流れる清水で手を洗う事で身を清めました。現在の石橋は大正5年に再建されたもので長さ4.5m、幅6.4m、国登録有形文化財。
鼓楼鼓楼
・鼓楼は文字通り、祭祀の際に利用される太鼓を打ち鳴らす施設です。当初は旧社務所の近くに設置されていましたが、新たに社務所が建てられると現在地に移築されました。建建物は大正5年造営されたもので、国登録有形文化財。
舞殿舞殿
・舞殿は弥彦神社の例祭の際に舞楽や神楽が奉納される場所で、特に大大神楽は国の重要無形民俗文化財に指定されています。現在の建物は大正5年造営されたもので、入母屋、銅板葺、四方吹き放ち、国登録有形文化財。
拝殿拝殿
・拝殿は本殿、幣殿の前に位置し、ここで祭神に参拝します。現在の建物は大正5年造営されたもので、入母屋、銅板葺、妻入、桁行9間、梁間5間、正面1間唐破風向拝付、建築面積165u、国登録有形文化財。


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