与板陣屋(長岡市)概要: 与板陣屋は宝永2年(1705)に井伊直矩が与板藩に入封し現在地に移しました(元々の陣屋は寛永11年:1634年、牧野康成が1万石で入封し中世の山城である与板城の麓に設けられた)。井伊家は遠江国掛川藩(静岡県掛川市)3万5千石を有していましたが先代直朝が精神疾患を理由に改易され、名門の血族だった事もあり与板領2万石で家名相続が許されました。しかし、2万石の大名ながら城持大名の格が与えられず、参勤交代のない江戸定府を常と領内には家臣などが配されました。
6代藩井伊直朗は幕閣に入り年寄の重責を担った事で城持ち大名へ昇格し、陣屋も大幅な改修、改築を行い、工事は7代藩主井伊直暉の時まで続けられ城郭としての体裁を整えました。江戸時代末期の戊辰戦争では長岡藩など周辺諸藩が奥羽越列藩同盟に参加するのに反して新政府軍に与した為(本家筋である彦根藩井伊家が新政府軍に与した為に追随したと思われます)、同盟軍との戦場となり城郭の大部分が焼失し、明治に入り廃城となっています。
与板城(陣屋)の本丸の周囲は水堀で囲い、正面に2の丸と外堀を配しさらにその外側には信濃川と支流を天然の堀に見立てていました。
現在は、与板陣屋(城)跡地には文化センターの敷地になり冠木門が復元、遺構としては大手門(切妻、桟瓦葺、高麗門)が本願寺新潟別院に、切手門(切妻、桟瓦葺、高麗門)が恩行寺の山門として移築され共に長岡市文化財に指定されています。
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