浦佐毘沙門堂(普光寺・南魚沼市)概要: 吉祥山多聞院普光寺は新潟県南魚沼市浦佐に境内を構えている真言宗豊山派の寺院です。浦佐毘沙門堂の創建は大同2年(807)、坂上田村麻呂が東夷東征の折、当地を訪れ毘沙門天王像を勧請し国家鎮護の祈願をしたのが始まりと伝えられています。承久3年(1221)、当地の地頭職平繁基は僧道乗坊辯覚を招き普光寺を開山、寺領を安堵すると共に浦佐毘沙門堂の別当としています。永徳2年(1382)には藤原清信等から田畑二百苅が寄進され、その後、桁行五間、梁間五間、屋根入母屋造、茅葺の壮大な伽藍が建立されたそうです。
戦国時代末期になると上杉謙信(関東管領、越後国守護職、春日山城の城主)が毘沙門天に帰依していたこともあり浦佐毘沙門堂が信仰の対象となり篤く庇護しています。江戸時代に入った慶長8年(1603)に坂戸城の城主堀丹後守直寄候が30石の寺領を寄進したことで合計50石となり、慶安年間(1648〜1651年)からは3代将軍徳川家光がそれらの所領を安堵し歴代将軍もこれに倣い10万石の格式を得ました。
高田藩の藩主松平忠輝も庇護し、藩主時代に山門(現在は聖徳太子堂)を寄進しています。慶応4年(1868)の戊辰戦争の際は新政府軍の本営が設置され普光寺(浦佐毘沙門堂)の境内には戦死した薩摩藩6人、長州藩6人が葬られています。昭和6年(1931)に当時の国特別保護建造物に指定された毘沙門堂は火災により炎上しましたが、江戸時代に建てられた本堂や山門(豪商、関市四郎氏寄進)は焼け残り当時の繁栄を今に伝えています。
特に山門は三間一戸、入母屋、銅板葺、八脚楼門で日光東照宮の陽明門を模したものとされ楼門下の天井の双龍図板絵は谷文晁師が楼上の天女舞姿絵、十六羅漢修業図、釈尊出山図は板谷佳舟が描いたものとされます。普光寺(浦佐毘沙門堂)楼門は貴重な事から平成9年(1997)に南魚沼市指定文化財となっています。
又、毎年3月3日に行われる例祭である「毘沙門堂裸押合祭」は日本三大奇祭に数えられ「浦佐毘沙門堂の裸押合の習俗」として平成16年(2004)国指定無形民俗文化財に指定されています。越後八十八ヶ所霊場第81番札所(札所本尊:大日如来・御詠歌:静かなる 普く光る 寺に来て 毘廬遮那仏の のりの声きく)。山号:吉祥山。院号:多聞院。宗派:真言宗豊山派。本尊:毘沙門天。
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