【 概 要 】−堀直寄は天正5年(1577)、堀直政と妙泉院との子供として生まれました。本家筋の堀秀治が家督を継ぐと直寄は小姓として仕え、慶長3年(1598)に秀治が春日山城(新潟県上越市)に配されると要衝である板戸城(新潟県南魚沼市)に2万石の城主に抜擢されています。坂本城時代には浦佐毘沙門堂(普光寺)に寺領30石を寄進し、坂本神社に社領を寄進、八幡神社を篤く信仰したそうです。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、会津の上杉景勝の重臣直江兼続の画策で発生した上杉遺民一揆によって支城である下倉城が落城するなど苦戦を強いられましたが、結果的に一揆勢の一掃に成功しています。慶長7年(1602)、蔵王堂城の城主堀親良は一族間のいざこざに嫌気を差し隠遁、形式上は秀治の次男鶴千代を養子とし家督を譲り蔵王堂城の城主に据えています。鶴千代は幼少だった事から直寄が補佐しましたが、早世した事から直寄が蔵王堂城3万石を管理する事になっています。
慶長13年(1608)、堀直政が死去すると家督を巡り兄で三条城の城主ある堀直清と対立、慶長15年(1610)に直清が僧侶を殺害した事を徳川家康に直寄が告発した事で、本家筋である高田藩の藩主堀忠俊と直清は改易になり、直寄も飯山藩4万石で移封となっています。元和元年(1615)に発生した大坂の陣で大功があり、元和2年(1616)に長岡領8万石で移封となり長岡藩を立藩、蔵王堂城の城主時代から懸案になっていた長岡城の築城が行われ領内の整備が行われましたが、元和4年(1618)に村上藩10万石に移封となっています(正覚寺など飯山城下から遷ってきた寺院も多かったようです)。
直政は村上城(新潟県村上市)の増改築を行い、寛永10年(1633)には西奈彌羽黒神社を現在地に遷座しています。城下町の町割りも行われ寛永16年(1639)には秀円和尚を招いて善龍寺を創建、元和4年(1618)に斉真寺(西真寺)に寺地を寄進、元和7年(1621)に善行寺に寺地を寄進、元和5年(1619)に往蓮社生誉呑虎和尚を招いて浄国寺の寺地を寄進、江戸時代初期に傑山雲勝和尚(長楽寺3世紀)を招いて善澤寺を創建、元和4年(1618)に常福寺に寺地を寄進、元和4年(1618)に堀家の菩提寺である英林寺を創建(英林寺は村松藩の藩主堀家に従い村松城の城下町に遷り、跡地は内藤家の菩提寺である光徳寺が境内を構えています)、元和4年(1618)に観音寺の堂宇の造営、慈光寺(新潟県五泉市)の再興、元和4年(1618)に猿沢大満虚空蔵尊の遥拝殿を現在地に造営、元和4年(1618)に諸上寺を中興開基となり寺領を寄進、寛永12年(1635)には石船神社の社殿を造営しています。寛永13年(1636)隠居、寛永16年(1639)死去、享年63歳、戒名:凌雲院殿前丹州太守鉄団宗釘大居士。
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