能生白山神社(糸魚川市)概要: 能生白山神社は新潟県糸魚川市能生に鎮座している神社です。能生白山神社の創建は不詳ですが、境内背後に聳える標高90m程の尾山(権現山)は小規模ながら秀麗で海上交通の目印として古くから信仰の対象になっていた可能性があります。
糸魚川周辺は古代の祭祀で重要な意味を持つ翡翠(ヒスイ)の産地で、全国の主要な弥生集落に運ばれた事から海運を利用したとすれば尾山(権現山)が重要視されたかも知れません。そして、当時、翡翠を生産管理していたのが奴奈川族と推察され、奈良時代に成立した「古事記」や「出雲風土記」によると、その姫(奴奈川姫=沼河比売・奴奈宜波比売)が大国主命と契りを結び御穂須々美命を儲けた事が記載されています。
能生の地には奴奈川姫の産所と伝わる岩井口や宮だったと伝わる尾山(権現山)、飲料水だったと伝わる横清水などが点在し、当社が奴奈川姫を祭る奴奈川神社であると古くから云われてきました。その為、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に式内社として記載されている奴奈川神社と推定(論社)され歴代領主からも崇敬の対象になりました(論社は他に市内一の宮に鎮座する奴奈川神社(天津神社の境内社)。市内田伏に鎮座する奴奈川神社)。
※尾山(権現山)は長野県長野市戸隠に九頭竜神社に祭られている九頭竜の「尾先」だったとの伝説があり、胴体に当たる関山神社(新潟県妙高市)には胴中権現、能生白山神社には尾先権現がそれぞれ祭られたとも云われています。境内に流れ出る手水は「竜の口」又は「蛇の口」ともいわれ、九頭竜神社の社殿を造営した際、鋸屑が混じった事から、水脈が繋がっているとの伝承も残されています。
一方、当地は古くから開けていた地域で延喜式で記載された北陸道の鶉石駅は能生付近にあったとされ、その産土神として勧請された可能性もあり、社伝や伝承によると崇神天皇11年(紀元前87年)に勧請されたとも大宝2年(702)に勧請したとも、元正天皇の御代(715〜724年)には泰澄大師が修験道場とし社殿が造営したとも云われています。
能生白山神社が資料的に明確になるのは平安時代末期の長寛元年(1163)に加賀国一宮である白山比盗_社(石川県白山市)で編纂された「白山之記」で、当時の白山比盗_社の末社9社の中に「ノウノ白山 越後」の記載があり、少なくとも平安時代末期には能生白山神社として成立していた事が判ります。伝承や記録などから察すると当初は奴奈川神社と号し奴奈川姫命が祭られていたものの、白山信仰が盛んになると白山神(菊理姫命)が勧請され白山権現と呼ばれるようになったと推察されます。
一方、神仏習合も進み、鎌倉時代には別当寺院である能生山太平寺が成立したと推察され、室町時代の室町時代の禅僧、歌人として知られた万里集九が当地を訪れた長享2年(1488)の事を漢詩文集の東国旅行記である「梅花無尽蔵」にも能生山太平寺の事を泰澄大師の旧跡で能生白山神社が鎮守である事を記しています(万里集九は能生山太平寺に6カ月滞在)。白山信仰が広がると太平寺の寺運も隆盛し最盛期には広大な境内に七堂伽藍を造営し末社75社、50余坊を数えたそうです。
戦国時代には春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信・景勝の庇護を受け、社領200貫が安堵され、上杉家執政の直江兼続は本殿の改修や太刀の奉納などが行われました。慶長3年(1598)、上杉景勝が会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に遷ると、新たに領主となった堀秀治と上杉家との軋轢から社領7石以外は没収され衰微しました。
能生白山神社:上空画像
慶長16年(1611)に検地奉行で高田藩(藩庁:高田城)主松平忠輝の附家老ある大久保岩見守が社領50石を寄進した事でようやく再興し、その後に藩主となった松平越後守光長も引き続き社領50石を安堵、さらに幕府により朱印地50石が認められた事で能生白山神社の社運も隆盛しています。能生白山神社は仏教色の強い神社だった事から明治時代の神仏分離令後も、仏像や仏具など多数所有して往時の名残が随所に残されています。
元禄2年(1689)には松尾芭蕉と曾良が奥の細道の折、能生に宿泊しおり「 曙や 霧にうつまく かねの声 」の句を残し、境内にはその句碑が建立されています。明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は仏式が廃され別当寺院だった能生山泰平寺(太平寺)宝光院からも分離し明治5年(1872)に柏崎県郷社に、明治7年(1874)に新潟県村社に、大正6年(1917)に郷社に列しています。祭神は伊弉那岐命、奴奈川姫命(神仏分離令後に菊理姫命から旧祭神とされる奴奈川姫命に変更)、大巳貴命。
現在の能生白山神社本殿は永正12年(1515)、畠山義元により再建されたもので三間社流造、こけら葺、正面1間向拝付、外壁は真壁造り板張り、室町時代に建てられた神社本殿建築の遺構として大変貴重なことから棟札4枚と共に昭和33年(1958)に国指定重要文化財に指定されています(中門は切妻、銅板葺、一間一戸、薬医門)。
拝殿は宝暦5年(1755)に再建されたもので入母屋、茅葺、妻入、桁行8間、梁間5間、正面唐破風、江戸時代中期の社殿建築の遺構として貴重なことから平成6年(1994)に糸魚川市指定文化財に指定されています。現在でも木造聖観音立像(国指定重要文化財)や銅像十一面観音立像(新潟県指定文化財)をはじめ数多くの仏像や一切経などを所有しており神仏混合の色濃い神社となっています。
白山神社の文化財
・ 聖観音立像−平安時代後期、桜材、一木造、像高104cm−国重文
・ 白山神社本殿(附:軒札4枚)−永正12年、三間社流造−国重文化
・ 糸魚川・熊生の舞楽−春の大祭(4月24日)で奉納−国重無形民俗
・ 能生白山神社の海上信仰資料−船絵馬・船額−国重有形民俗文化財
・ 白山神社社叢−高さ90m、面積3.5ha−国指定天然記念物
・ 熊生ヒメハルゼミ発生地−北限の発生地−国指定天然記念物
・ 十一面観音立像−平安時代後期、像高35.5cm−新潟県指定重要文化財
・ 汐路の鐘−明應8年(1499)−新潟県指定重要文化財
・ 泰澄大師坐像−大永4年、像高64.5cm−新潟県指定重要文化財
・ 舞楽面(5面)−新潟県指定重要文化財
・ 白山神社拝殿−宝暦5年(1755)−糸魚川市指定文化財
・ 朱印状(11通)−徳川家光等−糸魚川市指定文化財
・ 紺紙金字一切経・般若波羅密多経巻(第357)−糸魚川市指定文化財
・ 棟札−文亀3年(1503)−糸魚川市指定文化財
・ 円鏡・八稜鏡−糸魚川市指定文化財
・ 白山神社蛇の口の水−新潟県の名水
|