糸魚川陣屋概要: 糸魚川は北陸街道と糸魚川街道の結束点だった事から古くから軍事的拠点として重要視されてき地域です。中世の糸魚川は根知城が中心的な城郭で、慶長3年(1598)に堀秀治が春日山城に入ると、家臣である堀清重が配され慶長6年(1601)に秀治が新たな居城となる福嶋城を築くと糸魚川には支城として清崎城が築かれ堀左衛門が配されます。
慶長15年(1610)、御家騒動で堀氏が飯山藩(長野県飯山市)に移封になると松平忠輝が福嶋城に入封し、清崎城には重臣である松平信宗が入り、元和2年(1616)に忠輝が改易になると松平忠昌が入封し清崎城は付家老の稲葉正成が入ります。
寛永元年(1624)に忠昌が福井藩(福井県福井市)に移封になると松平光長が入封し、清崎城には家老である荻田氏(主馬、隼人、本繁)が入ります。天和元年(1681)に越後騒動がおきると光長が改易となり支城だった清崎城は廃城となりました。その後元禄4年(1691)に有馬清純が5万石で入封し糸魚川藩を立藩しましたが元禄8年(1695)に越前丸岡藩(福井県坂井市丸岡町)へ移封されます。
その後、天領を経て元禄12年(1699)に本多助芳が入封し再び糸魚川藩を立藩、享保2年(1717)に松平直之と続きますがいずれも石高が低く城格大名ではなかった為、小規模の陣屋を構えるのみでした。特に8代続いた松平氏は1万石の石高ながら定府大名だった為、自らの領地で采配を振うこともなく陣屋に郡代を置きました。陣屋は現在の糸魚川白嶺高校の敷地付近に建っていたようですが遺構らしきものはありません。
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