居多神社(上越市)概要: 居多神社は新潟県上越市五智6丁目に鎮座している神社です。居多神社の創建年は不詳ですが古くから格式の高い神社として知られ弘仁4年(813)には従五位下、貞観3年(861)には従四位下に列し延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳には式内社として記載されています。社号の「コタ」は「ケタ」に通じる事から、能登国一宮である気多大社(石川県羽咋市)の分霊が勧請された可能性もあり、北陸地方出身者が当地に進出した際や、7世紀末に、越国から磐船郡・渟足郡が分割され越後国が立国した際などに越国の人々が信仰していた気多神を祭る神社として創建されたのかも知れません。又、祭神が大己貴命(大国主命)である事から、出雲族が当地まで進出した際に出雲大社(島根県出雲市)の祭神である大国主大神を勧請したとの説があり、平成20年(2008)に再建された社殿も、出雲大社の社殿を小規模に模した印象を受けます。特に、上越市や糸魚川市には大国主命と、地元神の姫である奴奈川姫命との伝説が数多く残されており、出雲族と大きな関わりがあった事が示唆されています。
【 越後国一宮 】−居多神社の境内地は越後国府が近くにあったことから歴代国司や領主から崇敬庇護され越後国一宮(越後国一宮は弥彦神社、天津神社の説もあります)の称号を得て信仰を広めました。承元元年(1207)に越後国府に流された親鸞が居多神社を参拝し"すゑ遠く 法を守らせ 居多の神 弥陀と衆生の あらん限りは"と詠んだところ境内にあった芦が片葉になったと伝えられています(越後七不思議)。
【 北国紀行・梅花無尽蔵 】−居多神社は貞和3年(1347)には室町幕府から田井保(上越市板倉区田井)、観応2年(1351)には越後守護上杉憲顕から荒蒔保(上越市清里区荒牧)の社領が寄進されその後も守護上杉家や守護代長尾家の庇護となり社運も隆盛しています。文明18年(1486)には京都常光院の僧侶である尭恵が越後国府を訪れ、居多神社に参拝した際に「天の原雲のよそまて八島もる 神や涼しきおきつしほ風」を詠った事や、居多神や神主の由来などが著書である「北国紀行」に記されています。
長享2年(1488)には万里集九(室町時代の禅僧、歌人)が居多神社を5、6人の僧と共に参拝に訪れ、古い大木を眺めながら酒を酌み交わし道中安全の祈願した事が「梅花無尽蔵(漢詩文集の東国旅行記)」に記載しています。天正6年(1578)上杉謙信が死去すると上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子息)と相続を巡り内乱(御館の乱)となり居多神社は景虎方について行動した為、戦局を優位に進めていた景勝方によって焼き討ちになり神官である花ヶ前盛貞・家盛父子は越後から追放となりました。
【 高田藩 】−居多神社は一時衰退しますが慶長3年(1598)、景勝が春日山城から鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると花ヶ前父子は再び越後へ戻り、新たに領主となった堀秀治から社領13石を安堵され一応の再興が成りました。慶長16年(1611)、当時の福島城の城主松平忠輝は社領100石を安堵、慶安元年(1648)には3代将軍徳川家光が同じく社領100石を安堵し(歴代将軍家が朱印地を追認、高田城にて伝達授与・居多村12石+国分村87石)、以後、歴代高田藩(藩庁:高田城)の藩主である松平家・稲葉家・榊原家や幕府から庇護されます。
【 松尾芭蕉:奥の細道 】−居多神社には江戸時代前期の元禄2年(1689)に松尾芭蕉が奥の細道の際に参拝したとされ、芭蕉に随伴した弟子の曾良が記した「曾良日記」には、「十一日 快晴。暑甚シ。巳ノ下尅、高田ヲ立。五智・居多ヲ拝。名立ハ状不レ届。直ニ能生ヘ通、暮テ着。玉や五良兵衛方ニ宿。月晴。」の一文があり「五智」は五智国分寺、「居多」は居多神社とされます。居多神社は創建当初、岩戸浦山の中腹にあったそうですが日本海に面していた事で地形の変化や自然災害が起こりやすく貞和年間(1345〜1349年)と慶応2年(1866)にそれぞれ被害を受け社殿の位置を変え明治12年(1879)に現在地に遷座しました。明治5年(1872)に郷社、明治6年(1873)に県社に列しています。祭神は大己貴命、配神は奴奈川姫命、建御名方命。
居多神社の文化財
・ 居多神社文書(34通)−室町〜江戸−寄進状・祈願文など−上越市指定
・ 木造狛犬−鎌倉後期−檜材、一木造、阿形40p、吽形45p−上越市指定
上越市:神社・仏閣・再生リスト
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