【 概 要 】−堀忠俊は慶長元年(1596)、堀秀治と長谷川秀一の娘との子供として生まれました。慶長11年(1606)、秀治の死去に伴い堀家の家督を継ぎ、春日山藩(後の高田藩)の藩主に就任しています。同年、秀治が築いた福嶋城(新潟県上越市直江津)の完成に伴い、居城を春日山城から福嶋城に遷り、福嶋藩主となっています。
城下には春日山城(新潟県上越市)の鎮守社だった春日神社の分霊が勧請され、新たな春日神社が創建、慶長11年( 1607)には有力寺院である浄興寺も境内を構えています。一方、忠俊は幼少だった事から堀直政が執政として藩政を司り、徳川家康に忠俊の正室に徳川家から迎え入れたいと懇願しました。それを聞き入れた家康は重臣本多忠政の娘(百合姫)を2代将軍徳川秀忠の養女として婚姻関係を結ばせ松平姓と偏諱とし忠俊の名を与えています。
慶長13年(1608)に直政が死去すると、直政の長男である堀直清は三条城(新潟県三条市)の城主と堀本家の執政に就任しています。しかし、直清は浄土宗の僧侶と日蓮宗の僧侶による宗論を行わせ、敗れた浄土宗の僧侶を処罰(死罪)した事が問題となり直政の妻である自性院と直清の弟である堀直寄とが図り徳川家康に訴えました(堀家の執政職を巡り直清と直寄の対立が問題をより大きくしたとも言えます)。
堀家は豊臣系の有力大名だった事から、家康はこれを機に堀家の排斥を図り「家中取締不十分」の罪により忠俊を改易の上、平藩(福島県いわき市)鳥居忠政の預かりとし、直清も改易の上、山形藩(山形県山形市)最上義光の預かりとしました。忠俊は元和7年(1622)死去、享年26歳、淵室山長源寺(福島県いわき市平字胡摩沢)に墓碑が建立されています。
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