平林城(村上市)概要: 平林城の築城年は不詳ですが鎌倉時代に入った建久元年(1190)以降は平林氏の居城(城郭)だったとされます。南北朝時代に入ると南朝側の新田義貞に与した平林氏は北朝方に与した地頭である色部氏に敗れ、それ以降は色部氏の居城となります。
永正の大乱(越後国の内乱:永正3年:1506年〜永正7年:1510年)の際、色部氏は越後国守護職である上杉房能に与し、対立した守護代である長尾為景に与した中条氏や築地氏などに攻められ平林城は落城し、永正5年(1539)には伊達稙宗と中条藤資によって攻撃を受けています。
戦国時代に入ると色部氏は上杉家の配下に入り永禄4年(1561)の川中島の戦で「血染めの感状」を上杉謙信から賜うなど重臣として活躍、慶長3年(1598)上杉景勝が春日山城(新潟県上越市)から会津鶴ヶ城(福島県会津若松市)に移封になると色部氏も随行し米沢金山城の城主になった為、平林城は廃城となります。
【 平林城の縄張り 】−平林城は背後にある加護山城と麓の館城(居館)で構成されている城で、中でも館城は南北200m、東西301mという広大な城域で背後は加護山城、南西方向を荒川、平野部方向には深い堀を廻らす近世の平城を思わせる構成になっています。
基本的に本丸、二の丸、三の丸と呼ばれる郭がL型で配され、三の丸に設けられた枡形の北門、南門から城内に入り、二の丸へは大きな土塁と縦堀で分断され、本丸へは殿堀(深さ約9.5m、幅約7m、門跡:間口3.4m、奥行1.5m)と呼ばれる堀と土塁で囲われています。
平林城は現在でも土塁や、空掘、枡形などの遺構がよく残り昭和53年(1978)には国指定史跡に指定されています。平林城の跡地の近くには色部氏の菩提寺だった千眼寺や篤く信仰した保呂羽堂などが残されています。
平林城:上空画像
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