水原代官所(阿賀野市)概要: 水原代官所は延享3年(1746)に設けられた幕府の代官所で、中世、水原氏の居城であった水原城跡に建設されました。水原城は鎌倉時代に幕府御家人だった大見家秀の後裔とされる水原氏によって築かれた平城で、水原氏は長く当地を支配し、戦国時代には上杉景勝に属しましたが御舘の乱後に上杉家と対立した新発田重家に攻められ没落しました。その後、景勝の家臣で魚沼郡浦佐城主・大関親信の子供である大関親憲が水原氏の名跡を継ぎましたが、慶長3年(1598)に景勝が会津移封に伴い猪苗代城代に任じられ、水原城は廃城になったと思われます。
【 水原代官所の役割 】−江戸時代に入ると新発田藩(藩庁:新発田城)の藩領に組み込まれたものの、当地は広大な水田が広がり年貢の収益が高かった事から、領地替えが行われ幕府直領である天領となり、延享3年(1746)に水原代官所(陣屋)が設けられました。水原代官所は初代代官として内藤十右衛門が着任してから廃止されるまで約120年、歴代の代官の人数は22代を数え石高は5万石から10万石を領していました。
水原代官所の役割としては支配地域(現在の阿賀野市・新発田市・胎内市・聖籠町・旧豊栄町など)である下越地方の新田開発や年貢の徴収、隣接する外様大名の新発田藩、村上藩(藩庁:村上城)の監視、情報収集など多岐にわたり概ね30人前後の役人がその任にあたっていました。代官所の近くに境内を構えている長楽寺は代官や手代、その家族の菩提寺で、境内には多くの墓碑が残されています(水原代官所関係墓跡群:阿賀野市指定文化財)。
【 水原代官所の構成 】−代官所内部には公事場、白洲、御用場、訴所、中ノ口、大玄関、使者ノ間、上ノ間、中ノ間、中間部屋、御用人部屋、上御湯殿、御学問所、奥勝手、奥御台所、御台所、湯呑所、上小使部屋、書役部屋などから構成され文字通り当地域の行政、軍事の中心施設として機能していました。慶応4年(1868)の幕末の動乱期に会津藩預かりとなりますが新政府軍の侵攻により会津藩は撤退し水原代官所は廃されます。
一時、新政府が接収し利用したものの手狭だった事から、付近にある越後府に機能を移した為、跡地には水原尋常小学校や宅地となりました。現在は平成5年(1993)から平成7年(1995)に当時の水原代官所の平面図を基に復元されて当時の姿を見ることが出来ます。水原城館跡及水原代官所跡は昭和44年(1969)に阿賀野市指定史跡に指定されています。
水原代官所:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-阿賀野市教育委員会
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