村上城

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概要・歴史・観光・見所
村上城(舞鶴城・本庄城)概要: 村上城は舞鶴城、本庄城などと呼ばれ16世紀初頭に当時の小泉庄の領主本庄時長によって築かれたのが始まりとされます。本庄氏は武蔵国を領した秩父氏の一族が鎌倉時代に越後国小泉庄の地頭として派遣され、その後地名に因み本庄氏を名乗ったとされています。当時の本庄氏は当地域の国人領主として確立し、守護代を奪取し、守護である上杉家に謀反を起こした長尾為景とは対立関係にありました。為景は傀儡となる上杉定実を守護に擁立し小泉庄に侵攻、本庄城(村上城)も落城しています。その後も越後国の混乱は続き本庄城(村上城)も度々攻防戦が繰り広げられ周辺の国人領主である小川氏や鮎川氏の干渉もあり本庄氏は衰微します。

【 村上城と本庄繁長 】-本庄繁長が登場すると周辺の勢力図も一辺し、多くの国人領主は繁長に従うようになり、上杉景虎(謙信)との関係も主従というよりは同盟関係者として重責を担っていました。永禄11年(1568)、論功行賞などで謙信と敵対した繁長は武田信玄誘いに呼応し本庄城(村上城)に立て籠もり1年以上も籠城戦を展開しおおいに上杉軍を悩ませました。本庄城(村上城)は落城こそしませんでしたが周辺の諸大名の仲介もあり繁長は上杉家に降伏、以後は従属することとなります。その後、謙信には疎まれたましたが天正6年(1578)、謙信が死去すると上杉景勝(謙信の甥)と上杉景虎(北条氏康の子息)と相続を巡り内乱(御舘の乱)となり繁長は景勝側を鮮明にした事で側近となり、新発田重家の乱での新発田城新発田市)攻略や庄内侵攻の際は本庄城(村上城)が拠点として機能します。

当時の庄内地方はを拠点とした大宝寺氏が尾浦城(鶴岡市大山)を拠点とし勢力を拡大していたものの家臣を掌握しきれず、南方から最上氏、北方から秋田氏、東方から小野寺氏から攻められるといった不安定な地域でした。繁長は出羽街道を北上し荘内地方に侵攻を繰り返し尾浦城(山形県鶴岡市)の城主大宝寺氏を従属させることに成功、息子である千勝丸を大宝寺氏(武藤氏)の養子として送り込み、最上義光の侵攻を抑えています。しかし出羽国最大勢力を誇った最上氏との関係が悪化し、太閤検地後に発生した一揆は本庄氏が先導したと密告され流罪となります(ただし、庄内地方は繁長の嫡子義勝に与えられ事実上無罪に近い裁定となっています)。その後、繁長は再び上杉家家臣として迎え入れられ、景勝が春日山城上越市)から鶴ヶ城(福島県会津若松市)へ移ると随行し福島城(福島県福島市)を任せられます。

【 村上城の江戸時代 】-慶長3年(1598)、上杉景勝が春日山城から鶴ヶ城(福島県会津若松市)120万石で移封になると、春日山城には堀秀治が30万石で入封し本庄城には堀家の与力大名である村上頼勝が9万石で入封しています。これにより地名も本庄から村上に改められ本庄城から村上城に改称、当地方から本庄色が一掃されます。頼勝は慶長5年(1600)の関が原の戦いでも東軍に与した事で引き続き村上城の城主が認められ村上藩を立藩。村上城は近世城郭へ本格的改造に着手され城内には藩庁と藩主居館が設けられ天守なども築かれました。ただし、元和4年(1618)に村上忠勝が御家騒動で改易になった為、村上城が一応の完成を見たのはその後入封した堀直寄の代の元和5年(1619)とされています。

寛永19年(1642)に堀直定が幼少で亡くなった為に堀家は断絶、一時天領となり、正保元年(1644)に本多忠義が10万石で入封、慶安2年(1649)に白河城12万石で移封になると松平直矩が15万石で入封します。直矩が藩主になると寛文3年(1663)から村上城の大改修が始まり現在見られるような石垣を始め、天守閣、櫓などの建て替え、城下町も整備され現在見られる村上城の原型となっています。城下町は出羽街道や羽州浜街道の宿場町でもあり、元禄2年(1689)には奥の細道の行脚で出羽街道を利用した松尾芭蕉も城下にある久佐衛門家(現在の井筒屋旅館)で宿泊し、村上城に招かれています。

【 村上城と戊辰戦争 】-寛文7年(1667)の落雷が原因で火災となり天守閣を含む多くの建物が焼失、その後再建されましたが、無用の長物となっていた天守閣は財政難などあり再建されませんでした。その後も藩主の入れ替わりが激しく享保5年(1720)に内藤弌信が越後国岩船・蒲原・三島3郡5万石で村上城に入封するとようやく定まり以後内藤家が明治維新まで城主を務めています。戊辰戦争では白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加したものの、新政府軍が村上城下手前まで侵攻すると、家臣の中で新政府側と旧幕府側とで意見が対立し、旧幕府側に与した家臣達は村上城に火を放ち庄内藩に逃亡しています。村上城には、尚、多くの建物や施設が残されていましたが明治4年(1871)に廃藩置県により廃城となり明治8年(1875)頃までに概ね解体、破却、払い下げ終了しています。村上城は昭和35年(1960)に新潟県指定史跡、平成5年(1993)に国指定史跡に指定されています。

【 村上城の縄張り 】-村上城は臥牛山(標高:135m)山頂に築かれた南北1.4km、東西2.3kmの山城(背後には中世城郭の遺構も見られる。)で戦乱が無くなった近世の城郭としては珍しい形式です。基本的に藩庁と藩主居館は麓に設けられた為、山頂の城郭部はもっぱら中世の詰め城的な機能しか無く、本丸や二之丸、三之丸の面積は比較的に小さく計画されています。本丸には3層天守の他、時代によっては多少異なりますが3基から4基の2層櫓が配され、それを繋げるように多聞櫓が廻り、本丸帯郭との出入り口である枡形の冠木門がありました。本丸帯郭には乾櫓、巽櫓、出櫓、平櫓が配され、特に出櫓が配され部分は2之丸に大きく張り出す事で敵兵が侵入してきた際は防御上大きな役割を持ったと思われます。二之丸と本丸帯郭の間には黒門、大手筋からは御鐘門、搦手筋からは東門が配され、櫓などの施設は設けられなかったようです。三之丸には2層櫓である玉櫓と靱櫓、大手筋には四ツ門が配されていました。麓の藩庁、居館部分の正面には三層櫓、月見櫓(2層)、中櫓(2層)、角櫓(2層)があり3方を堀と土塁で囲い一文字門、框門、刎橋門で出入りを管理していました。西山麓には村上藩の藩庁と藩主居館が設けられ事実上この区間が行政の中心となりました。麓の居館と山頂の城郭部とは七曲りと呼ばれる険しい路で繋げられ日常は殆ど利用されていなかったようです。村上藩が10万石から15万石だった頃の築城の為、内藤家が5万石時代には不相応の大規模城郭で管理に苦慮していたと思われます。

【 村上城の城下町 】-村上城の外堀の内側は略武家地で城に近い方が大身の家臣が配され、外側に行くに従って小録の家臣が配されていました。外堀を囲うように出羽街道、羽州浜街道、米沢街道(越後街道)が引き込まれ、街道沿いに商人町が配され、特に村上城の西側に厚く商人町が形成されています。内藤家の菩提寺である光徳寺は村上城の西側の麓の郭内に配されていますが、浄念寺安善寺といった他の多くの寺院は北西に配され寺町を形成し、南西の羽州街道沿いにも村上城の鎮守社で村上藩領総鎮守である西奈彌羽黒神社など多くの社寺が配されています。現在も城下町には旧若林家住宅(国指定重要文化財)や旧成田家住宅村上市指定文化財)、旧嵩岡家住宅(村上市指定文化財)、旧藤井家住宅(村上市指定文化財)、旧岩間家住宅(村上市指定文化財)が残り、街道沿いには町屋が点在しています。

村上城(石垣・城郭):写真

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