栃尾城(長岡市)概要: 栃尾城の築城年は不詳ですが南北朝時代には砦のようなものが 既に存在していたと言われています(栃尾城は南北朝時代末期に越後守護代芳賀禅可によって築かれたという説もあります)。戦国時代になると越後守護代長尾氏の家臣本庄氏が栃尾城の城主となり現在見られるような山城に築城したと考えられています。上杉謙信は幼少の頃禅寺である林泉寺(上越市)に預けられていましたが天文12年(1543)の14歳の時に栃尾城に入り当時の城主本庄実乃の補佐により初陣を初め数々の戦功を挙げました。その後、謙信は兄の晴景の跡を継ぎ春日山城(上越市)に入ると越後統一に歩を進めます。謙信が死去すると上杉景勝と上杉景虎の2人の養子による跡継ぎ争いが激化し世に云う"御館の乱"が勃発、栃尾周辺も戦場となり当時の栃尾城の城主本庄秀綱は景虎側についた為、栃尾城は景勝軍の殲滅戦により落城、秀綱は会津に落ち延びたとされます。
その後、景勝に従った佐藤甚助忠久が城主として配しましたが慶長3年(1598)に景勝が春日山城から鶴ヶ城(福島県会津若松市:当時は黒川城)へ居城を移すと堀秀治が春日山城に入り新たな領主となり栃尾城には家臣である神子田長門守が入ります。堀秀治は上杉家が帰依した真言宗の寺院への弾圧や、同じく帰依を篤くしていた神社から社領を取り上げ、庶民についても増税を課した為、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いでは上杉家の遺臣に同調した、それらの団体が一斉に一揆を起こし越後全体が大混乱になりました。堀秀治や執政である堀直政は一揆の鎮圧に軍勢を向けた為、本戦での戦功はありませんでしたが、この一揆は上杉家が画策したものとの理屈が通り領土は安堵されたものの加増は認められませんでした。
慶長15年(1610)に家老堀直清と堀直寄との争乱を発端とする御家騒動が勃発すると堀家は改易になり栃尾城も廃城となります。栃尾城は標高228mの鶴城山に築かれた中世の山城で山頂付近の本郭を中心に二之郭、三之郭、松之郭、五島郭といった主要な郭がありそれぞれ深い空堀や竪堀で区切られ中腹には馬場や武者溜り、狼煙台といった郭が配されています。現在でも栃尾城には郭の形状や空堀、竪堀、土塁、井戸跡といった遺構が残り中世の山城の遺構として貴重なことから昭和35年(1960)に新潟県指定史跡に制定されています。
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