【 概 要 】−溝口重雄は寛永10年(1633)、新発田藩3代藩主溝口宣直と森川重俊の娘との子供として生まれました。寛永17年(1640)に3代将軍徳川家光に御目見し、慶安4年(1651)に従五位下に叙任、信濃守となっています。寛文12年(1672)宣直の隠居に伴い溝口家の家督を継ぎ、新発田藩4代藩主に就任しています。延宝元年(1673)に勅使の饗応役を担い、宝永8年(1680)、越後騒動により高田藩の藩主松平光長が改易になると高田藩は廃藩、領地は天領となり延宝9年(1681)から天和2年(1682)までと貞享2年(1685)から貞享3年(1686)まで1年交代で高田城の城番を勤めています。
新発田藩の実績としては寛文8年(1668)の火災で焼失した新発田城の再建に尽力し、延宝4年(1676)には領内に諸法度を公布、貞享5年(1688)には先の法度の不備を手直した「覚」を公布、延宝6年(1678)には領内総検地を実施、沼垂湊の町割り、阿賀野川の河川工事などを実施しています。宝永3年(1706)隠居、宝永5年(1708)死去、戒名:悠山院殿前信州大守勝林宗慧大居士。
溝口重雄は社寺の保護も行い、天和2年(1683)沼垂蔵所開かいた際、五穀豊穣の守護神として高砂稲荷神社(新潟市)を創建、貞享5年(1688)には長瀬神社(加茂市)へ社領8反を寄進、元禄元年(1688)には諏訪神社(新発田市)を現在地である泉町に遷座、貞享4年(1687)に西光寺(加茂市)へ寺領を寄進、宝永2年(1705)には千光寺(新発田市)へ安産祈願成就に感謝し弁天堂と仁王門の造営、遠州流の茶人縣宗知を招いて五十公野御茶屋庭園の作庭、元禄6年(1693)には同じく縣宗知が作庭した清水御殿の庭園(現在の清水園)の竣工、元禄8年(1695)には青海神社(加茂市)に御旅所を寄進と矢立御神事場を献納しています。
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