堀直政:概要

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概要・歴史・観光・見所
堀直政(春日山城)

【 概 要 】−堀直政は天文16年(1547)に奥田直純と堀利房の娘との子供として生まれました(天正13年に「堀」姓を与えられています)。幼少の頃から織田信長に従い伊勢侵攻に従軍し功を挙げたとされます。天正10年(1590)に発生した本能寺の変で信長が倒れると豊臣秀吉に従い、主要な合戦に従軍に功を挙げています。天正18年(1590)に発生した小田原合戦の陣中で盟友で従兄弟される堀秀政が病死すると幼少だった堀秀治が跡を継ぎましたが、豊臣秀吉は年若い事を理由に要地である北ノ庄城(福井県福井市)18万石を取り上げ年齢に相応しい地に移封しようとしました。直政は秀政が長年に渡り秀吉に忠勤したのにも拘らず万一跡目を認めないならば自分も秀吉との縁を切るしかない、と訴えると秀吉もこれを認めました。

慶長3年(1598)に秀治が春日山城45万石に移封になると、直政は三条城5万石で入り、その他の与力大名である溝口秀勝は新発田城6万1千石、村上義明(頼勝)村上城9万石、堀親良(秀治の弟)は蔵王堂城3万石、堀直寄(直政の次男)は坂戸城1万石、柴田勝全は渡部城、神子田政友は栃尾城、小倉政熈は下倉山城、堀左門助は根知城に入り越後支配を確立しました(直政の長男である堀直清は事実上三条城の城代後に改易、4男である堀直之は8千石が与えられ後の椎谷藩(藩庁:椎谷陣屋)の藩祖、5男である堀直重は須坂藩の藩祖)。

堀直政は堀家の事実上の執政として春日山城の整備や領内の整備を行う一方で(春日山城の麓に設けられた城郭は直政が縄張りし、自身が通称「監物」と呼ばれていた事から総堀の事を「監物堀」と呼ばれています)、前領主だった上杉景勝が領内の年貢を全て移封先である会津に引き上げた為、財政が逼迫し新潟代官河村彦右衛門からの借財や、魚沼神社(新潟県小地谷市)や二田物部神社(新潟県柏崎市)など上杉家縁の社寺の領地を大幅に削減、農民に対する重税などで賄いました。領内が不穏な雰囲気の中、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いに呼応するように上杉遺民一揆が起こっています。

堀直政は堀家一族と各与力大名を徳川家に与するようにまとめ上げ一揆殲滅に尽力、自ら三条城を出て津川方面の一揆衆を掃討しています。慶長10年(1605)には秀吉の菩提寺である高台寺造営に尽力(開山堂には高台寺の復興に尽力した三江紹益、木下家定とその妻雲照院、堀直政の木像が安置されています)、慶長11年(1606)に秀治が死去すると、幼少の堀忠俊を補佐するものの慶長13年(1608)死去、享年62歳、千手院殿前城門郎傑山道英大居士。

堀直政は社寺の保護も行い、慶長3年(1598)には三島神社の社領を寄進、同年には鵜川八幡神社(現在の鵜川神社)に社領を寄進、慶長5年(1600)には弥彦神社(新潟県弥彦村)に書状を発布しています。

春日山城:写真
堀直政と縁がある春日山城 堀直政と縁がある春日山城 堀直政と縁がある春日山城 堀直政と縁がある春日山城
二田物部神社:写真
堀直政と縁がある二田物部神社参道石畳みから見た木製鳥居と手水舎 堀直政と縁がある二田物部神社拝殿正面と石造狛犬 堀直政と縁がある二田物部神社拝殿右斜め前方 堀直政と縁がある二田物部神社本殿と幣殿
魚沼神社:写真
堀直政と縁がある魚沼神社参道石畳み沿いに設けられた随身門(神社山門) 堀直政と縁がある魚沼神社境内から見た拝殿正面 堀直政と縁がある魚沼神社拝殿脇に生える杉の大木越に見た本殿 堀直政と縁がある魚沼神社境内に設けられている茅葺屋根の阿弥陀堂
弥彦神社:写真
堀直政と縁がある弥彦神社参道石段から見る二の鳥居 堀直政と縁がある弥彦神社参道石段から見上げる随神門(神社山門) 堀直政と縁がある弥彦神社随神門(神社山門)から見る境内 堀直政と縁がある弥彦神社境内から見る拝殿正面と背後の弥彦山



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