牧野忠辰:概要

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概要・歴史・観光・見所
牧野忠辰(蒼柴神社)

【 概 要 】−牧野忠辰は寛文5年(1665)、長岡藩2代藩主牧野忠成と牧野康成(与板藩初代藩主)の娘との子供として生まれました。延宝2年(1674)、忠成の死去に伴い家督を継ぎ長岡藩3代藩主に就任しています。就任当時の忠辰は幼少だった事から、初代藩主牧野忠成の5男で三根山藩の藩祖である牧野忠清の補佐を受け、「諸士法制」十七条を発布しています。延宝7年(1679)、元服に伴い従五位下、駿河守に叙任、天和元年(1681)には高田藩の藩主松平光長が越後騒動(養子に迎えた永見万徳丸の縁組を巡り家臣団が分裂し騒動となった。)により改易された事から高田城(新潟県上越市)の受け取り役を務めています。天和2年(1682)に忠清が致仕し幽閑と号している事から、この頃に忠辰体制が整えられたと思われます(同年には忠辰自ら「諸士法制」が改訂されています)。

貞享3年(1686)には刈谷田川牧野一之江が完成、貞享4年(1687)には家臣である小出善助に命じて家臣達の文武を奨励しています。新田開発による石高の増産から忠辰は家臣の採用を大幅に行っており武術の達人だけでなく文化の興隆を見込んで能役者や一芸に秀でている者を召喚したりしています。忠辰自身も江戸城で能を演じ、長岡城の城内で能が開く時は庶民にも開放しています。その他にも松・杉・槻・桐の4種類の木材に規制を設けて産業の保護を行っています。一方で質素倹約を信条とし、その思想から「十分杯」という酒器が考えられたとも云われています。「十分杯」は八分目以上酒を入れると底の穴から酒が零れるような仕組みになっていて、「何事にも欲張らず、余裕をもって行動すればそれなりの恵みを齎すが、度を越すと全てを失いかねない。」と家臣に戒めたとされます。

牧野忠辰は神道を信仰していた事で、京都の吉田家と関係が深いだけでなく、長岡藩領にあり越後国一宮である弥彦神社(新潟県弥彦村)とも繋がりがあり、元禄7年(1694)には弥彦神社から高橋左近を招き神道の相伝を受け、絵馬を奉納し境内には大己貴命と牧野秀成、牧野保成、神戸赤左衛門、宮内卿女の五柱を祭る五所宮(後の十柱神社)を創建、現在でも当初の社殿が残され国指定重要文化財に指定されています。さらに元禄8年(1695)には家臣3人を弥彦遷宮式に派遣し元禄9年(1696)には祈請詞を奉納しています。

忠辰は享保6年(1721)に隠居、享保7年(1722)死去、享年58歳、神道を信仰した事から京都の神道家吉田家より蒼柴霊神の神号が送られています。忠辰の養子で長岡藩4代藩主に就任した牧野忠寿は長岡城の一角に社を設け忠辰の御霊を忠辰が信仰していた事代主命の分霊を勧請、この社が蒼柴神社(新潟県長岡市)の前身とされます。

蒼柴神社:写真
牧野忠辰と縁がある蒼柴神社拝殿と幣殿の側面 牧野忠辰と縁がある蒼柴神社拝殿正面の扉と高欄 牧野忠辰と縁がある蒼柴神社拝殿向拝に施された龍の彫刻 牧野忠辰と縁がある蒼柴神社幣殿
弥彦神社:写真
牧野忠辰と縁がある弥彦神社の境内を流れる御手洗川と石段 牧野忠辰と縁がある弥彦神社の境内を流れる御手洗川と玉ノ橋 牧野忠辰と縁がある弥彦神社の玉ノ橋は向唐破風屋根に朱色の太鼓橋 牧野忠辰と縁がある弥彦神社に流れる御手洗川に架かる石橋
十柱神社:写真
牧野忠辰と縁がある十柱神社 牧野忠辰と縁がある十柱神社 牧野忠辰と縁がある十柱神社 牧野忠辰と縁がある十柱神社



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