岳山城(加茂市)概要: 岳山城の築城は正平23年(1368)頃、新田義宗によって築かれたと推定されています。義宗は南朝の有力武将の1人新田義貞の3男で、義貞が死去すると新田家を継ぎ、関東から越後にかけての南朝側の武将の指導的な立場として北朝側と対立しました。義貞は正平7年(1352)の武蔵野合戦で北朝側に敗北すると越後に逃れ宗良親王(後醍醐天皇第五皇子)と合流し加茂七谷を拠点としたそうです。応安元年(1368)、北朝側の侵攻により岳山城に逃れた義宗は岳山城まで退き籠城しましたが奮戦むなしく城は落城し、自害し果てたとされ麓に設けられた宝篋印塔は義宗の墓と伝えられています。
ただし、義宗の死については諸説あり一般的には現在の群馬県沼田市付近で討ち取られたとされ沼田市にある雲谷寺には義宗の墓と伝わる墓碑が建立されています。岳山城は熊野山(標高:242m)の山頂に築かれた中世の山城で加茂川の侵食により周囲が崖となり防御に適した天然の要害でした。現在、長瀬神社が鎮座している平地に主要な施設があったとされ、周囲には空堀や土塁の一部と見られる土盛も散見出来ます。
岳山城:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-加茂市・加茂市観光協会
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