市島家住宅(新発田市)概要: 市島家は新発田藩主溝口家が加賀大聖寺(石川県加賀市)を領していた時に仕え、慶長3年(1598年)新発田城(新潟県新発田市)移封に随行してきました。
当初は五十公野に居を構えましたが元禄年間(1688〜1704年)市島家2代目の代に水原に移り以来、福島潟干拓を主体に新田開発を行い全国有数の豪農へ成長していきました。その後は新田開発だけでなく、運輸業や金融業、薬問屋などにも職種を広げ、江戸時代中期には1千六百70町歩を所有し4代徳次郎の代に永代の名字帯刀が許され、明治35年(1902)には1千4百66町歩、宅地18万坪、その後は山林1千8百町歩を手に入れました。
現在の市島家住宅は戊辰戦争で旧宅邸(継志園:旧越後府・新潟県阿賀野市)が焼失し明治5年(1872)に10代徳次郎(静月)が現在地に建てたもので敷地2000平方メートル内に表門(銅瓦棒葺、切妻、むくり付)、玄関、南山亭(仏間)、松籟庵、水月庵(数寄屋造)、説教所、畜舎、門番所(木造平屋、寄棟、桟瓦葺、武者窓)、本亭、前土蔵(土造2階建、寄棟、桟瓦葺き)、奥土蔵など12棟、1構が建てられ、庭園は池を中心とする回遊式庭園が広がっています。
市島家住宅は明治時代に建てられた豪農建築(豪農の館)の遺構として貴重なことから昭和37年(1962)に新潟県指定有形文化財に指定されています。又、市島家に伝わる市島家文書16528点(江戸時代から昭和初期)が昭和47年(1972)に新潟県指定文化財に指定されています。
市島家住宅:上空画像
|