新発田市: 五十公野御茶屋

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概要・歴史・観光・見所
五十公野御茶屋(新発田市)概要: 五十公野御茶屋は慶長5年(1600)、溝口秀勝が新発田入封の際新発田城の完成まで仮住まいした場所で、ここで領内の支配や新発田城の縄張りの構想したとされ、敷地は背後の高台に築かれた五十公野城の居館の一部だったと推定される場所です(大部分は隣接する東中学校の敷地と推定されています)。鎌倉幕府の有力御家人だった佐々木盛綱が平家の一族で反乱を起こした城氏討伐に大功があり、当地の地頭に就任すると一族が各地に配され、その後裔が五十公野氏とされます。五十公野城の築城年は判りませんが、五十公野氏の居館の詰め城として築かれと推定され、戦国時代は同族の新発田氏に従った為、新発田城の支城的存在だったようです。特に、新発田長敦と弟で五十公野家の名跡を継いだ重家は上杉謙信に従い大功を挙げ重臣として名を馳せましたが、謙信の死後に発生した御館の乱で上杉景勝方に与し勝利に貢献したものの、恩賞が全く無かった為対立関係となりました。長敦が死去した事で重家が再び新発田家に戻り家督を継ぎ天正9年(1581)〜天正15年(1587)に至るまで頑強に上杉家に抵抗し続けました。五十公野家の名跡は信宗が継ぎ、重家と共に上杉家に対していましたが、豊臣家の後ろ盾を得た景勝が攻勢に転じ、天正15年(1587)に五十公野城は落城、裸城となった新発田城も間も無く落城し重家、信宗は共に自刃しています。

重要性を失った五十公野城は廃城となり、居館部分も荒廃しましたが、慶長3年(1598)に溝口秀勝が当地に配されると、秀勝は新発田城を近世城郭へと大改修を行い、江戸時代に入り本丸御殿が完成するまで五十公野城の居館跡地に館を設けて、仮御殿として政務を行いました。新発田城は承応3年(1654)頃に大凡完成し、明暦元年(1655)に仮御殿跡地を新発田藩3代目藩主溝口宣直が改めて周辺を整備し五十公野御茶屋を造営し自らの別邸としています。さらに、4代藩主溝口重雄は遠州流の茶人縣宗知を招いて庭園の作庭を依頼し現在見られる大名庭園が整備されました。縣宗知は遠州流の茶人上柳甫斎の門人で幕府の御庭方として活躍し「県宗知茶書」や「庭作心得書」などを著し新発田藩主の下屋敷である清水谷御殿も作庭しています。新発田藩溝口家は5万石(幕末に高直しで10万石)程度の大名ですが、五十公野御茶屋だけでなく清水谷御殿も維持していた事から石高以上に裕福だった事が窺えます。

五十公野御茶屋は本格的な大名庭園で、背後の御腰掛山の中腹には「華鳥軒」と名付けられた東屋を設け、別邸として建てられた建物を茶寮としています。五十公野御茶屋は藩主が参勤交代で利用する会津街道(越後街道)沿いにあったことから御休息所的な要素も含まれており、参勤交代の際は茶が点てられ、ここで正装から旅装に着替え改めて江戸の出立したそうです。御茶屋の建物(新潟県指定文化財)は文化11年(1814)に建てられた数寄屋建築で木造平屋建て、寄棟、茅葺、茶室(書院)部分は前に張り出し、3方向が開口出来庭園を眺める事が出来ます。庭園は回遊式庭園で心の字を模した池を中心に各国から取り寄せた木々を植え込み、茶室(書院)から見ると裏庭が借景となり繊細さと奥深さを感じる事が出来ます。五十公野御茶屋は越後を代表する大名庭園として大変貴重なことから平成15年(2003)に「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園及び五十公野茶屋庭園」として国指定名勝に指定され、「奉先堂公園」として日本の歴史公園100選(平成18〜19年にかけて「都市公園法施行50周年等記念事業実行委員会」によって250箇所の「優れた歴史的・文化的資源を有し、地域の活性化に貢献している歴史的公園」が選定された)に選定されています。

五十公野御茶屋:写真

五十公野御茶屋
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五十公野御茶室 五十公野御茶屋 五十公野御茶室 五十公野御茶屋
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