清水園(新発田市)概要: 清水園は万治元年(1658)に新発田藩(藩庁・新発田城)3代藩主溝口宣直が下屋敷を整備したのが始まりです。寛文6年(1666)から小堀遠州流で幕府庭方、県宗知が江戸から招かれ4度の指南を受けの元禄6年(1693)4代藩主溝口重雄の代で完成しています。庭園は池泉回遊式の純和風庭園で近江八景(堅田の落雁・三井の晩鐘・瀬田の夕照・石山の秋月・粟津の晴嵐・矢橋の帰帆・唐崎の夜雨・比良の暮雪)を模した景観に樹木や清水御殿(元禄6年:1693年建築、寄棟、鉄板葺き:元こけら葺き、内部は京間座敷、上段の間、次の間・昭和29年に新潟県指定文化財に指定)と呼ばれる数奇屋建築を中心に数棟の茶室(桐庵・夕桂亭・翠濤庵・同仁斎・松月亭)が池を取り囲んでいます。
表門は元々は新発田藩家老屋敷の武家門だったもので、切妻、茅葺、一間一戸、木部朱塗り。当初は清水御殿と呼ばれていましたが明治24年(1891)大地主だった伊藤文吉(新潟県新潟市)が買い入れ昭和21年(1946)に北方文化博物館の分館になった際、「清水園」と呼ばれるようになりました。
伊藤文吉家は江戸時代中期に本百姓として独立すると、代を重ねる毎に大地主として拡大し、名字帯刀が許され金融業や運輸業などにも事業を拡大し明治時代後期には1千町歩を越え、昭和初期には新潟県最大の豪農となりました。清水園もそのような中で伊藤家に買い取られましたが、太平洋戦争後に農地解放や大地主の解体が行われ、それに伴い「清水園」や伊藤家本邸などが財団法人である北方文化博物館に所有が遷り保存される事になりました。清水園は越後を代表する大名庭園として大変貴重なことから「旧新発田藩下屋敷(清水谷御殿)庭園及び五十公野茶屋庭園」として平成15年(2003)に国指定名勝に指定されています。
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