菅谷不動尊(新発田市)概要: 菅谷不動尊は新潟県新発田市菅谷に境内を構えている真言宗醍醐派の寺院です。 菅谷不動尊の創建は文治元年(1185)に源頼朝の叔父にあたる護念慈応上人(源為義の子、比叡山の僧)が開基したと伝えられています。本尊の不動尊像は印度の仏師ビシュカツマ(毘首羯摩)の作で唐に修業していた最澄大師が比叡山無動寺(滋賀県大津市:近畿三十六不動尊26番札所、千日回峰行の拠点)に持ち込み、さらに、平治の乱(平治元年:1160年、信西派と二条親政派、藤原信頼、後白河上皇、源氏、平家などが入り乱れて交戦状態となった政変)の混乱を避ける為、護念慈応上人が持ち出した事から三国伝来の霊仏として信仰の対象となりました。
又、一説には平安時代に嵯峨天皇の勅命により一本の欅の霊木から弘法大師空海が一刀三礼で3躯の不動明王像を彫刻し、1躯を成田不動尊(千葉県成田市)、1躯を米子瀧山不動寺(長野県須坂市)、1躯を菅谷不動尊(新潟県新発田市)に安置した事から日本三大不動尊の一つとも云われています(この伝承から弘法大師越後二十一ヶ所霊場第10番札所に選定されています)。
ただし、日本三大不動尊は、成田不動尊(千葉県成田市)、目黒不動尊(東京都目黒区下目黒)、木原不動尊(熊本県熊本市南区富合町木原)、中野不動尊(福島県福島市飯坂町中野)等、由緒ある不動尊を祀っている数多くの寺院が自称、他薦しています(弘法大師空海が1本の霊木から3躯の不動尊像を彫刻し、その内の1躯が菅谷不動尊だった事から日本三大不動尊とする説もあります)。
【 吾妻鏡と田螺伝説 】−史実的には建久6年(1195)、源頼朝の娘が大病を患った際、10月11日に護念慈応上人が鎌倉に赴き、菅谷不動尊の御加護により病気を平癒させ、護念が「越後国加地庄菅谷山」の堂宇を造営した事が鎌倉時代の正式の歴史書である「吾妻鏡」に記されていて、少なくとも鎌倉時代初期には菅谷不動尊が既に存在し護念慈応上人が大きく関わっていた事が判ります。
菅谷不動尊は頼朝が死去すると庇護者を失い衰退しましたが、承元4年(1210)、3代将軍源実朝が大叔父護念慈応上人旧跡の荒廃を憂い、相州義時(北条義時)に命じ寺領として無主の没収地を寄進させ七堂伽藍を造営しました。
しかし、建長5年(1253)の火災により悉く焼失、その際、本尊の不動尊は「田螺」に境内の「みたらせ滝」の滝壺まで導かれ無事だった事から、現在でも滝壺には田螺が奉納され(信者や参拝者が田螺を放流)、滝不動に水をかける風習が残っています。※ 護念慈応上人は正治2年(1200)、享年58歳で死去、菅谷不動尊(菅谷寺)の旧地とされる寺境の沢には護念慈応上人の墓碑が建立されています。
【 菅谷不動尊の境内 】−境内には新発田市指定文化財に指定されてる本堂や山門の他にも開山堂や薬師堂、弁天堂など建物や"みたらせの滝"などもあり信仰の篤さを感じます。特に眼病に御利益があるとして広く信仰を集め卯年と酉年の御開帳の際には数多くの信者が参拝に訪れています。又、境内背後の高台には神仏習合時代鎮守社だった日吉神社が鎮座しています(創建当初は天台宗で、天台宗の守護神である日吉大社(滋賀県大津市坂本)の分霊を勧請したと思われます)。弘法大師越後二十一ヶ所霊場第10番札所(札所本尊:不動明王・御詠歌:三国に ぐぜのせいがん 深ければ あまた願いも かなわぬはなし )。山号:諸法山。寺号:菅谷寺。宗派:真言宗醍醐派。本尊:不動尊。
【 菅谷不動尊の堂宇 】−山門は慶応2年(1866)に村上出身の宮大工7代目板垣伊兵衛が棟梁として建てたもので三間一戸、入母屋、瓦葺、2層には高欄を廻した楼門建築で細部の彫刻など凝った意匠で菅谷不動尊では象徴的な建物です。
本堂は明和7年(1770)に再建されたもので、入母屋、銅板葺き(元茅葺)、桁行5間、梁間5間、正面向拝3間軒唐破風付、向拝には精緻な彫刻が施された格式ある建物で、棟梁は4代目板垣伊兵衛が手掛けています。
菅谷不動尊本堂及び山門(附:本堂棟札2枚、山門棟札2枚、山門版木1枚)は貴重な古建築物である事から平成27年(2015)に新発田市指定文化財に指定されています。算額は亨和元年(1801)に新発田出身の和算家坂井広明の門人である中野添雄を中心とした門弟達が菅谷不動尊に奉納されたもので、現存し年代が明確な算額としては新潟県第2位の古さを誇り、貴重な事から昭和50年(1975)に新発田市指定文化財に指定されています。
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