法音寺大日堂(新発田市)概要: 密護山法音寺の創建は天平7年(735)、聖武天皇の勅願で行基菩薩と波羅門僧正(南天竺の僧)が開いたのが始まりと伝えられ、弘法大師空海が巡錫で当寺を訪れた際、真言宗に改宗しています。
その後、度重なる天災などで荒廃しましたが嘉承元年(1106)、当時の領主、城永基により再興され乙宝寺(新潟県胎内市)、華報寺(新潟県阿賀野市)と共に領内三ヶ寺の1つとして寺運も隆盛しました。
城氏は平家一族だった為、鎌倉幕府成立直前に没落し、変わって幕府御家人で源頼朝(鎌倉幕府初代将軍)の側近だった佐々木盛綱が加治荘の地頭として赴任し法音寺を庇護します。頼朝の死後は主君の御霊を供養する為五輪塔が建立され、以後、佐々木加地氏の総菩提所、祈願所として特別な地位にあったとされます。
最盛期には境内に七堂伽藍が建ち並び下越地方の中でも有数の大寺として名を馳せましたたものの、15代加地春綱は曹洞宗に帰依した為、菩提寺は香伝寺に移り、さらに加地氏は上杉謙信の跡目争いである「御館の乱」、その恩賞に反発した「新発田重家の乱」で上杉景勝(春日山城の城主)に対立した事で没落した為、当寺も庇護者を失い衰微します。
江戸時代初期の元和元年(1615)、俊賀上人により再興されましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後吹き荒れた廃仏毀釈運動により大日堂(木造平屋建て、入母屋、桟瓦葺き、平入、正面1間軒唐破風向拝付。)以外の殆どの建物などが失われ、さらに加治川の改修工事によって境内の大部分を失いました。
現在境内に残されている五輪塔は源頼朝の供養塔と伝えられるもので総高155.4cm、花崗岩製、新潟県を代表する大型五輪塔の遺構として貴重なことから昭和63年(1988)に新発田市指定文化財に指定されています。毎年6月末期には火渡り修行が行われています。
越後八十八ヶ所霊場第39番札所(本尊:大日如来・御詠歌:朝日さす 光麗し 金剛の 冥加あまねき 法音の岡)。山号:密護山。宗派:真言宗醍醐派。本尊:大日如来。
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法音寺大日堂:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-新発田市観光協会
・ 越後八十八カ所霊場 遍路の旅-株式会社 新潟日報事業社
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