林泉寺(上越市)概要: 春日山林泉寺は新潟県上越市中門前1丁目に境内を構えている曹洞宗の寺院です。林泉寺の創建は明応6年(1497)に当時の越後守護代長尾能景が父親の17回忌供養の為、帰依していた曇英恵応を招き開山したのが始まりとされます。
曇英恵応は室町時代の曹洞宗の高僧で、大庵須益、為宗仲心らの推挙により曹洞宗の大本山である永平寺(福井県永平寺町)の住職に就任し、その後は雙林寺(群馬県渋川市)や最乗寺(神奈川県南足柄市)などの名刹の住職を歴任しています。寺号は菩提者である長尾重景の戒名「林泉寺殿実渓正真」に因むもので、境内は春日山城の麓に設けられました。
以来、越後国守護代を勤めた長尾重景、長尾能景、長尾為景の3代の菩提寺として庇護され寺運も隆盛し春日城の城下で大きな影響力を持ちました。天文5年(1536)、上杉謙信(当時は虎千代)が7歳の時、林泉寺に預けられ住職である天室光育から教育され大きな影響を受けた事は有名で剃髪や謙信の名も林泉寺から授けられています。
慶長3年(1598)、謙信の後を継いだ上杉景勝が鶴ヶ城(福島県会津若松市)へ移封になった際、庇護者を失いましたが新たに春日山城30万石の城主になった堀秀治が堀家の菩提寺として境内が整備され徳川秀忠から寺領224石の朱印状を受け取り繁栄しました。
秀治の跡を継いだ忠俊は幼少で執政だった堀直政が死去すると御家騒動を招き改易、その為、林泉寺境内には堀秀重、秀政、秀治の墓碑と位牌が移される事なく残されています(忠俊は改易先である福島県いわき市平字胡摩沢の長源寺が菩提寺)。松平家時代も菩提寺になっていたようで高田藩(藩庁:高田城)も藩主は埋葬されていないようですが藩主である松平光長の嫡男で次期藩主候補だった松平綱賢の墓碑が建立されています。綱賢の死去に伴い跡継ぎ争いが激化し所謂「越後騒動」が勃発し5代将軍徳川綱吉の裁定により高田藩は改易は改易となっています。
林泉寺:上空画像
榊原家の時代には領内菩提寺だったようで、初代藩主榊原政永の父親で姫路藩3代藩主だった榊原政岑(8代将軍徳川吉宗に反発し意図的に遊行に耽ったとされ、強制的に隠居させられ、政永も事実上左遷にあたる高田藩移封となった。)と3代藩主榊原政令の3男である榊原政賢(政礼、一時常陸谷田部藩主細川興祥の養子になるも廃嫡となり高田藩に帰参)が葬られています(藩主は江戸の菩提寺である霊巌寺に埋葬されています)。
一方、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで敗北した上杉景勝は米沢城(山形県米沢市)に移封になり景勝の実母である仙洞院が元和3年(1617)に林泉寺14世万安大悦を招聘して米沢城下でも林泉寺が創建されています(上杉家の移封直後に随行しなかったのは不思議に感じますが、謙信の葬儀も真言宗で行われており、曹洞宗の林泉寺は距離が置かれていたのかも知れません)。米沢の林泉寺は、藩主が個別に埋葬(謙信や景勝など歴代米沢藩主は個別に霊廟が設けられ大乗寺、法音寺により管理された)されていたので正確には菩提寺ではありませんが多くの上杉家の一族や関係者の墓碑が建立されています。
林泉寺の境内には上杉謙信や、歴代藩主の墓碑(掘秀政・掘秀治・掘秀重・長尾為景・長尾能景・松平土佐・松平綱賢・榊原政岑・榊原政賢)、川中島の戦いで戦士者の供養など多くの史跡があります。宝物殿には長尾家、上杉家、歴代藩主縁の品が保管展示され、特に上杉謙信書翰、上杉謙信が自ら筆したとされる扁額(春日山)、扁額(第一義)は上越市指定文化財に指定されています。
林泉寺総門は長尾家、上杉家の居城だった春日山城の裏門(搦手門)を移築したと伝えられるもので、形状や形式からも室町時代後期から江戸時代初期の建物と推定されています。形式は切妻、茅葺、一間一戸、正面3.7m、奥行3m、四脚門、主要部材は欅素木、装飾が少なく城門を思わせる雰囲気があり、正面には「雲岫関」の額が掲げられています。林泉寺惣門は春日山城の唯一残された建築的遺構として貴重な事から昭和50年(1975)3月27日に上越市指定有形文化財(建造物)に指定されています。山門は近年造営されたもので、入母屋、銅瓦棒葺、三間一戸、八脚二重楼門、領主の菩提寺として相応しい偉容を誇っています。山号:春日山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦牟尼仏。
林泉寺の文化財
・ 上杉謙信書翰−戦国時代、縦165cm、横56cm−上越市指定文化財
・ 扁額「春日山」(謙信著)−戦国時代、縦130cm、横252cm−市指定
・ 扁額「第一義」(謙信著)−戦国時代、縦130cm、横252cm−市指定
・ 林泉寺惣門−室末〜江初−切妻、茅葺、扁額「雲岫館」−上越市指定
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