乙宝寺(胎内市)概要: 如意山乙宝寺は新潟県胎内市乙に境内を構えている真言宗智山派の寺院です。乙宝寺の創建は奈良時代の天平年間(729〜749年)に聖武天皇(第45代天皇・在位:神亀元年:724年〜天平勝宝元年:749年)の勅願により婆羅門僧正と行基上人が開山したのが始まりとされ、その際、行基上人は本尊3体を自ら彫り込み、婆羅門は釈尊の左眼舎利を安置した事から乙寺と呼ばれるようになったと伝えられています。乙宝寺の境内に建立されている六角堂の下に安置されている塔心礎は様式や形状から奈良時代初期(白鳳時代)と推定され、これが事実とすれば、上記の由来と時代的に合致し、現在のところ新潟県最古の塔心礎で、越後国分寺の可能性もあるそうです。平安時代には真言宗の開祖である弘法大師空海が巡錫で乙宝寺を訪れ、境内の一角に独鈷杵を打ち付けるとそこから霊水が湧き出たとの伝説が残されており、現在も「どっこん水」と呼ばれ滾々と湧き出し住民達からも利用されています。
平安時代後期になると越後の領主となった常陸平氏大掾氏の傍系で越後平氏ともいわれる城氏により庇護され法音寺(新潟県新発田市)、華報寺(新潟県阿賀野市)と共に領内三ヶ寺の1つとして寺運も隆盛しました。
安元2年(1176)、後白河天皇(第77代天皇・在位:久寿2:1155年〜保元3年:1158年)の勅願により左眼舎利を安置する二重の金塔が寄進された際、寺号を乙宝寺に改めています。
「乙宝寺縁起絵巻」によると、平安時代後期には既に荒廃していたようで、安元2年(1176)に当時の越後守だった城助永の伯父宮禅師の霊夢に御告げがあり、それに従い宝塔(五重塔)の心礎を掘り起こし、そこから仏舎利を発見した記されています。
城氏は平家一門でありながら、壇ノ浦の戦い以降許され、鎌倉幕府の御家人となり大きな勢力を維持していましたが、建仁元年(1201)の「建仁の乱」で反乱を起した為に当主である城長茂は粛清され、鳥坂城(新潟県胎内市)に立て籠もった一族の城小太郎資盛も幕府から派兵された佐々木盛綱の軍により侵攻され落城し、城氏は滅亡しています。
乙宝寺:上空画像
城氏が没落後は新たに越後国奥山荘の地頭として就任した三浦和田氏の一族である黒川氏や中条氏、戦国時代には上杉家から庇護され寺領300石の寄進を受け、「今昔物語」や「古今著聞集」にも「乙宝寺」の寺号が見えるなどその後も名刹としての信仰を広げました。特に上杉謙信(春日山城の城主)が篤く帰依し、謙信が左眼舎利の分粒を勧請したとの伝承が残されており、後裔である米沢藩(山形県米沢市)の藩主上杉鷹山は谷文晁一門による「紙本著色乙宝寺縁起絵巻」を奉納しています。
紙本著色乙宝寺縁起絵巻(昭和44年:1969年に新潟県指定文化財に指定。)は乙宝寺の創建、由来を詞と絵で描いたもので縦42.42cm、横14.54m、詞が7段、絵が8段で構成され、谷文晁の妻、長男、娘、弟夫婦、門人などの一門総勢10名が室町時代に制作された原本を忠実に模写した作品で、奥書には文晁自筆でこの作品についての説明が記されています。
江戸時代に入ると村上藩(新潟県村上市:本城−村上城)の藩主である村上家から庇護され寺領100石の安堵や慶長19年(1614)には三重塔を寄進され、10万石の格式得ていました。元禄2年(1689)7月1日には奥の細道の行程で、松尾芭蕉も乙宝寺に参拝で訪れており、境内には芭蕉句碑「うらやまし 浮世の北の 山桜」(元禄5年:1692年、芭蕉49歳の時、現在の石川県金沢市にある卯辰山に住む門人句空に送った句)が建立されています。古くから乙宝寺の守護神で、奥山荘黒川条内乙郷44カ村の産土神として信仰された八所神社とは神仏習合していましたが、明治時代の神仏分離令により分離しています(八所神社宮殿と、乙宝寺の堂宇には技術的な共通点が多いそうです)。
乙宝寺はその後も寺運が隆盛し、文政11年(1828)には5つの支院(末寺和光院、地福院、常楽院、宝憧院、円乗院)や龍福寺などがありましたが、明治時代に入ると寺領の返上や廃仏毀釈運動などにより衰微し、さらに、昭和12年(1937)に乙宝寺大日堂が焼失し当時の国宝だった大日如来像、阿弥陀如来像、薬師如来像も同時に失っています。越後三十三観音霊場第26番札所(札所本尊:如意輪観世音菩薩・御詠歌:唐土の 人も訪ねし 乙寺 今に絶えせぬ 法の灯)。越後八十八ヶ所霊場第38番札所(札所本尊:大日如来・御詠歌:朝日さし 夕日輝く 乙寺 いりあひ響く 松風の音)。蒲原三十三観音霊場番外札所(札所本尊:如意輪観世音菩薩・御詠歌:朝日さし 夕日輝く 乙寺 いりあひ響く 松風の音)。越後弘法大師二十一ヶ所霊場第8番札所(札所本尊:大日如来)。越後薬師霊場第22番札所(札所本尊:薬師如来)。山号:如意山。宗派:真言宗智山派。本尊:大日如来、阿弥陀如来、薬師如来。
乙宝寺:ストリートビュー
乙宝寺境内には国指定重要文化財に指定されている三重塔の他に延享2年(1745)に建てられた仁王門(入母屋、銅板葺、正面唐破風、三間一戸、八脚楼門、伝:仁王像は行基菩薩作、伝:西条丹呉家寄進、伝:奈良時代に建てられた金堂の古材使用)や寛文8年(1668)に建てられた弁天堂、享和3年(1803)に建立された観音堂などの寺院建築があります。
【 乙宝寺弁天堂 】-乙宝寺の弁天堂は山門(楼門)に続く参道沿いに位置しています。参道両側には蓮池が配され、右側に弁天堂、左側に金比羅堂が境内を構え対になる構成で両堂共に水関わる本尊が祭られています。乙宝寺弁天堂に祭られている弁才天は仏教の守護神である天部であると共に水神である市杵嶋姫命(宗像三女神の一柱)と同一視され、水、財宝、芸能に御利益があるとされます。
現在の乙宝寺弁天堂は江戸時代前期の寛文8年(1668)に造営されたもので、木造平屋建て、寄棟造、茅葺(20年に1度葺き替え)、平入、桁行3間、梁間2間、正面1間向拝付、外壁は横板張り、朱塗り仕上げ、内部には桃山時代に製作されたと推定されている厨子(1間堂、入母屋、妻入、正面千鳥破風、極彩色仕上げ)が設置されています。江戸時代初期の茅葺御堂建築の遺構として貴重な事から昭和30年(1955)2月9日に新潟県指定有形文化財に指定されています。
乙宝寺の文化財
・ 乙宝寺三重塔-元和5年-高さ23.1m、宝形造、こけら葺-国指定重要文化財
・ 乙宝寺弁天堂-寛文8年-寄棟、茅葺、桁行3間、梁間2間-新潟県文化財
・ 紙本著色乙宝寺縁起絵巻-文化7年-谷文晁作-新潟県指定重要文化財
・ 金銅製華鬘(附:玉幡2枚)-大永2年-金銅板-新潟県指定重要文化財
・ 乙山大日堂建立地固之真景図-江戸時代中期-胎内市指定有形文化財
・ 大般若波羅蜜多経-保元3年-巻子装、朱頂黒漆塗切軸-胎内市指定文化財
・ 越後国乙宝寺猿物語絵図-富岡鉄斎筆-胎内市指定有形文化財
・ 塔心礎-奈良時代初期-花崗岩製、径66p-胎内市指定有形文化財
・ 墨書石-文安3年-高さ23m、幅11.5p-胎内市指定有形文化財
・ オバカシ-推定樹齢400年、樹高5.5m-胎内市指定天然記念物
・ きのとざくら(俗称:大提灯ざくら)−胎内市指定天然記念物
・ 木造阿弥陀如来立像-鎌倉時代末期-像高97p-胎内市指定有形文化財
胎内市:神社・仏閣・再生リスト
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