溝口宣直:概要

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概要・歴史・観光・見所
溝口宣直(新発田城)

【 概 要 】−溝口宣直は慶長10年(1605)、新発田藩2代藩主溝口宣勝と長寿院(堀秀政の娘)との子供として生まれました。寛永5年(1628)宣勝の死去に伴い溝口家の家督を継ぎ新発田藩3代藩主に就任しています。宣勝の時代に新田開発を行い5万石から6万5千5百石になっていましたが、弟である溝口宣秋に6千石、溝口宣俊に5千石、溝口宣知に4千5百石を分知した事から再び5万石となっています。

宣直時代の新発田藩は災害が連続的に発生し、寛永10年(1633)には大雨により阿賀野川が決壊した事で大洪水となり新発田藩の湊町だった沼垂町が壊滅的な被害を受けました。承応3年(1654)にも洪水が発生し被害を被り、それを受けて明暦元年(1655)に新発田川の改修工事を行っています。寛文8年(1668)には新発田城の城下で火災が発生し城内の施設の多くを焼失、寛文9年(1669)には大地震により新発田城の石垣が崩れ修復が行われています(中蒲原郡史上巻や徳川実記によると寛文10年:1700年5月5日に発生、新発田藩主溝口家記録・寒廟記によると寛文9年:1669年5月5日に発生した事になっています。※寒廟記は江戸時代後期に編纂された為、信用度が低く、寛文10年説の方が有力とされます)。

幕府の使役としては江戸城拡張に伴う石垣普請や市ヶ谷堀浚い、寛永11年 (1634)に徳川家光が上洛した際の随行、寛永14年(1637)に発生した島原の乱の際の江戸城守備、寛永20年(1643)に発生した会津騒動により会津藩主加藤明成が改易になった際、居城である鶴ヶ城(福島県会津若松市)の在番、下館城在番、大坂城番、朝鮮通信使接待役、二条城在番などを行っています。

溝口宣直の新発田藩の実績としては、寛永7年(1630)には法華寺に寺領1町2反余を寄進、寛永15年(1638)には諏訪神社を新発田城の城内から職人町(現在の大手町)に遷座、慶安元年(1648)には溝口家の菩提寺である宝光寺に200石を寄進、承応3年(1654)には正燈寺(東京都台東区浅草)を創建、明暦元年(1655)に別邸として五十公野御茶屋(新潟県新発田市)を造営、万治元年(1658)には高徳寺を五十公野の上新保に移しその敷地を下屋敷として清水谷御殿(現在の清水園)を造営、万治2年(1659)には青海神社(新潟県加茂市)に対する社領田寄進の御墨付の発布、万治2年(1659)には深く帰依した毘沙門天を祭る古四王神社の別当寺院である養洞院に寺領五反と米弐石六斗五升を寄進、寛文12年(1672)隠居、延宝4年(1676)死去、享年71歳、戒名:寒光院殿禅林味歇大居士、家督は溝口重雄が継いでいます。

新発田城:写真
溝口宣直と縁がある新発田城 溝口宣直と縁がある新発田城 溝口宣直と縁がある新発田城 溝口宣直と縁がある新発田城
宝光寺:写真
溝口宣直と縁がある宝光寺 溝口宣直と縁がある宝光寺 溝口宣直と縁がある宝光寺 溝口宣直と縁がある宝光寺
諏訪神社:写真
溝口宣直と縁がある諏訪神社 溝口宣直と縁がある諏訪神社 溝口宣直と縁がある諏訪神社 溝口宣直と縁がある諏訪神社
五十公野御茶屋庭園:写真
溝口宣直と縁がある五十公野御茶室 溝口宣直と縁がある五十公野御茶屋 溝口宣直と縁がある五十公野御茶室 溝口宣直と縁がある五十公野御茶屋
古四王神社:写真
溝口宣直と縁がある古四王神社参道の苔生した石段 溝口宣直と縁がある古四王神社参道石段から見上げた木製鳥居 溝口宣直と縁がある古四王神社参道石畳みから見た拝殿と石燈篭 溝口宣直と縁がある古四王神社社殿(拝殿・幣殿・本殿)右斜め前方
青海神社:写真
溝口宣直と縁がある青海神社 溝口宣直と縁がある青海神社 溝口宣直と縁がある青海神社 溝口宣直と縁がある青海神社



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