小千谷市: 魚沼神社

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概要・歴史・観光・見所
魚沼神社(小千谷市)概要: 魚沼神社は新潟県小千谷市土川2丁目に鎮座している神社です。魚沼神社随身門(神社山門)から見た参道魚沼神社の創建は崇神天皇の時代(紀元前97〜紀元前30年)に勧請されたと伝えられている古社で祭神が天香語山命と彌彦神社弥彦村)と同じ事から上彌彦神社と称していました。平安時代の延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載される式内小社魚沼神社の論社で弥彦神社が越後国一宮に対し当社を越後国二宮として信仰されてきました。ただし、延喜式神名帳に記載されている魚沼神社を主張する神社は湯沢町に鎮座する魚沼神社坂本神社(南魚沼市大倉)、坂本神社(南魚沼市宮)、八幡宮(南魚沼市八幡)、伊米神社(小千谷市桜町)など複数あり確定には至っておらず、越後の国人領主からは二田物部神社(新潟県柏崎市)が越後国二宮と認識されていたようです。

社運も隆盛し周辺地域には幾つもの末社が設けられ大きな影響力を持ちましたが南北朝の動乱で社殿も焼失一時衰退します(魚沼神社は南朝方の有力武将の1人だった新田義貞に従った為、義貞が戦死すると衰退したと思われます)。その後、当地を支配したと思われる吉谷村の西片弥三郎光行が庇護し永享9年(1437)には鰐口(「南無弥彦大明神 奉懸鰐口越後国魚沼郡吉谷村 永享九年十一月十五日大願主西片弥三郎平光行 敬白」の銘。※弥彦大明神は魚沼神社の事)、明応元年(1492)には懸仏4躯が寄進されています。

西片弥三郎光行の詳細は不詳ですが魚沼神社の十八末社の一つである宇都宮神社にも鰐口(「宇都宮鰐口旦那平朝臣西片弥三郎光行願主 越後国魚沼郡内吉谷村 藪河住人惣大宮司等 永享十年戊午七月中旬九日大工道久禅 敬白」の銘)が寄進されている事からも、かなりの実力者だった事が窺えます。又、魚沼神社の神輿(小千谷市指定有形文化財)も明応4年(1496)に制作されたものなので、西片弥三郎光行が関わった可能性もあります。吉谷村は、かつて新潟県北魚沼郡にあった村で現在は小千谷市に含まれている事から、西片光行が領主であるとすれば当時は吉谷村が行政の中心地だった事になります(当時の行政区域は判りませんが、旧吉谷村は魚沼神社の境内にも近い事から当時は含まれていたのかも知れません)。

戦国時代後期になると上杉謙信(春日山城の城主)の庇護を受け、魚沼神社境内にある杉の大木越に見る拝殿の右側面後方永禄5年(1562)には社領100貫と十八末社に各御供田一町半反が寄進され、永禄12年(1569)には戦勝祈願として七社明神(富山県小矢部市:長岡神社)の大般若経400巻余(至徳年間〜応永年間)が奉納されています。謙信は関東出兵で当地まで進軍していた際には魚沼神社を本陣として利用した事もあり信仰の篤さが窺えます(上杉謙信の関東進出の経路は幾つかあったと思われますが、当初は春日山城から北陸道で柏崎宿に至り、柏崎宿から魚沼街道で小千谷に至り、小千谷から信濃川を渡り三国街道よって峠を越えて関東に軍を進めている事から魚沼神社が重要視されていたようです。その後は、春日山城から松之山街道塩沢宿に至り、塩沢宿から三国街道に入り、三国峠又は清水峠を越えています)。天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると後継ぎ争いである「御舘の乱」が発生、魚沼神社は上杉景勝方に与したようで、景勝が上杉家の家督を略手中にすると天正8年(1580)には諸役が免除され社領が安堵、天正9年(1581)には社殿の修造料として河船1艘が寄進されています。

慶長2年(1597)に上杉景勝の家臣で検地奉行に抜擢された河村彦左衛門によって行われた検地によると社領507石を領していましたが、慶長3年(1598)に景勝が会津(福島県会津若松市)に移封となり、新たに坂戸城の城主に入封した堀直政からは疎まれたようで社領は10石と大きく削減されています。これは景勝が会津に移封になった際、越後領の年貢米を全て会津領に引き上げ為、堀家一族の領内経営が大きく困窮した事が原因で特に上杉家と縁のある社寺の領地は狙い撃ちとなり、さらには農民への増税も行われた事が「上杉遺民一揆」にも繋がっています。江戸時代に入ると歴代藩主から崇敬庇護され、慶長16年(1611)には松平忠輝(高田城の城主)、慶長19年(1614)には大久保石見守(松平忠輝の附家老)がそれぞれ社領を安堵し、小千谷領が天領となると徳川家の庇護となり正保元年(1644)には社領20石の寄進を受け家光以下8通の朱印状が残されています。

現在でも扁額に彌彦大明神と書かれ、永享9年(1437)の鰐口には「弥彦大明神」、延徳3年(1491)の懸仏には「弥彦大明神」、永禄5年(1562)の上杉輝虎(上杉謙信)の書状には「上弥彦大明神」、慶長2年(1597)の上杉家奉行発布の知行書には「上弥彦神官」との記載があり、古くから弥彦明神と呼ばれてきましたが、安永9年(1790)に京都の全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)を持っていた吉田家の許しを得て旧社号と思われる魚沼神社に復しています。ただし、当社から式内社魚沼神社だったとの資料や証拠を示した訳ではなく、中世以降周辺地域で最もと栄えた神社という自負から自ら式内社を主張したものと思われます。

一方、江戸時代後期の文化文政年間(1804〜1830)頃に編纂された北越雑記によると弥彦明神が当国(越後国)で最初に降臨した地(船岡山?)で、第11代の天皇とされる垂仁天皇の時代に阿彦と呼ばれる者が討たれ、その御霊を祭ったと記されています。越後一宮の弥彦神社の祭神は天香語山命で、魚沼神社の当初の祭神が阿彦だとすると、弥彦神社と魚沼神社はそもそも関係が無く、神官が阿彦と弥彦が似ている事から社号を弥彦神社とし、江戸時代後期に式内社の格式を得る為に魚沼神社に改めたと考える事も出来ます(越後国二宮の二田物部神社では弥彦神社の祭神は天香語山命では無く、阿彦を討った大幡主大神としています)。阿彦というのは古代越国を支配していた豪族で「高志の国王」だったとされ朝廷に対して反乱を起こし鎮圧されたようですが、基本的に現在の富山県が伝説の舞台となっている事から、魚沼神社とは関係がないかも知れません。

魚沼神社は古くから神仏習合し明治時代初頭に発令された神仏分離令により仏式が廃され明治6年(1873)に郷社に列し、その後県社に列しました(江戸時代初期までは池源寺(慈眼寺)が別当職を担っていました)。祭神は天香語山命、豊玉姫命、阿彦。

魚沼神社境内にある阿弥陀堂は神仏分離令の際に神輿舎として境内に残されたもので、魚沼神社の祭事の際神楽が奉納される神楽殿明治38年(1905)に現在地に移され、実際には阿弥陀三尊像が安置されたままだったので昭和29年(1954)の解体修理された際、旧号である阿弥陀堂に復しています。魚沼神社阿弥陀堂は室町時代後期の永禄6年(1563)に造営されたもので、木造平屋建て、桁行3間、梁間3間、宝形造り、茅葺、外壁は真壁造り素木板張り、室町時代後期の御堂建築の遺構として大変貴重な事から明治39年(1906)に国指定重要文化財に指定されています。随神門(神社山門)は切妻、銅板葺、三間一戸、中央部の屋根が高く左右には境内を守護する随身が祭られています。拝殿は江戸時代末期の安政年間(1854〜1860年)に再建されたもので木造平屋建て、入母屋、銅板葺、妻入、桁行4間、梁間6間、正面1間唐破風向拝付、外壁は真壁造板張り。本殿は三間社流造、銅板葺、外壁は真壁造板張り。

魚沼神社の文化財
・ 魚沼神社阿弥陀堂−永禄6年−三間四面、宝形造、茅葺−国指定重要文化財
・ 鰐口−永享9年−銅製、直径42.8cm−新潟県指定文化財
・ 大般若経(559帖)−室町時代−上杉謙信寄進等−新潟県指定文化財
・ 神輿−明応4年、高さ1.8m、重さ150キロ−小千谷市指定有形文化財
・ 魚沼神社年中行事記-天正16年-儀式・供物・禊・祈祷等-小千谷市指定文化財

魚沼神社:写真

魚沼神社境内正面に設けられた大鳥居と石造社号標
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魚沼神社参道石畳み沿いに設けられた随身門(神社山門) 魚沼神社境内から見た拝殿正面 魚沼神社拝殿脇に生える杉の大木越に見た本殿 魚沼神社境内に設けられている茅葺屋根の阿弥陀堂


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