【 概 要 】−佐々木加地氏は源頼朝の側近で鎌倉幕府の御家人だった佐々木盛綱を祖とする氏族です。建仁元年(1201)、城資盛が幕府に反旗を翻し鳥坂城に籠城、幕府の討伐軍の総大将が佐々木盛綱で、乱の平定後、加地荘など周辺地域を掌握し一族を地頭として配したと思われます。盛綱の子供とみられる信実は承久の乱などで大功を挙げ地位を確立すると加地荘に配され、以後、後裔が加治氏を称し当地を長くに渡り支配しました。信実には9人の男子の子供がいたようで、中には新発田氏や竹俣氏など国人領主として発展しています。
加地景綱は南北朝時代には北朝方の足利氏の与し周辺領主を指揮する立場で「大将」と呼ばれ一族の中でも首領的地位にあったとされ、争乱は大方北朝方の勝利に終わった為、南朝方に与した一族もその後は景綱に従ったと思われます。
戦国時代に入ると、当時の当主加地春綱は、上杉謙信に仕え関東や信州の川中島などにも従軍し七手組大将(本庄繁長、色部勝長、中条藤資、竹俣清綱、新発田長敦、柿崎景家、加地春綱)や上杉二十五将の一人に数えられました。跡を継いだ秀綱は上杉景勝の従兄弟に当たる人物でしたが天正6年(1578)、謙信の跡継ぎを決める「御館の乱」では景虎方に与し当初、景勝方にあった新発田重家と五十公野道寿斉に攻められ加治城が落城し没落しています。秀綱は加治城落城の際に討死したとも、その後に起きる「新発田重家の乱」に加担して討死したとも云われています。
その跡を継いだ景綱は慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、「上杉遺民一揆」に参加しその後、帰農したとされます。法音寺は佐々木加地氏の総菩提所として庇護され寺運も隆盛し領内3箇寺(乙宝寺、華報寺、法音寺)にも数えられていましたが加地春綱が真言宗から曹洞宗に宗旨変えをした事から菩提寺は同じ曹洞宗である香伝寺に移りました。
その後もある程度の庇護はあったと思われますが度重なる兵火や加治氏の没落により衰退し元和元年(1615)俊賀上人によって再興されています。法音寺境内には源頼朝の供養塔が残され新発田市指定文化財に指定されています。
|