千眼寺保呂羽堂(村上市)概要: 普光山千眼寺は新潟県村上市平林に境内を構えている曹洞宗の寺院です。千眼寺保呂羽堂の創建は天正19年(1591)に当時の平林城(新潟県村上市)の城主、色部長真が保呂羽山波宇志別神社(秋田県横手市大森町:東北から関東地方に分布する保呂羽山神社の本社。)の分霊を勧請し色部家の菩提寺である千眼寺の守護神としたことが始まりと伝えられています。
天正19年(1591)、色部長真は主家である上杉景勝(五大老、春日山城の城主)の命で出羽国仙北郡の太閤検地と、それに伴って発生した仙北一揆の平定の為に小野寺領の大森城(秋田県横手市)に赴任、その際、篤く帰依した保呂羽山波宇志別神社を信仰するようになったそうです。保呂羽山波宇志別神社は平安時代後期の延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社で、秋田県内では式内社は3社しかなく、当時は他の2社は衰微していた事もあり保呂羽山波宇志別神社の社家は大きな影響力があり、色部氏と何らかな関係を持ったと思われます。
普光山千眼寺の創建は室町時代に真言宗の寺院として開かれたと伝えられています。その後、当地域の領主である色部昌長が越後四ケ道場筆頭の耕雲寺(新潟県村上市)10世大仲玄甫を招き曹洞宗の寺院となっています。戦国時代に入ると色部長真が居城である平林城の城下町を整備した際に千眼寺を現在地に移し色部家の菩提寺に定めています。
慶長3年(1598)に上杉景勝が会津黒川城(福島県会津若松市)に移封になると色部氏もこれに従い金山城(山形県南陽市)に移り、近くにある熊野大社の境内にも保呂羽神社が勧請されています。さらに、慶長6年(1601)に上杉景勝が米沢城(山形県米沢市)に移封になると、色部氏は置賜郡窪田村(山形県米沢市)に移り、同地に千眼寺と保呂羽神社が創建されています。
村上市平林の千眼寺もそのまま存続し、その後も神仏混合の形式を保っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により神式が廃され保呂羽神社は千眼寺所有の保呂羽堂となっています。
現在の千眼寺保呂羽堂は安政5年(1858)に再建されたもので、本殿は一間社流造、桟瓦葺、向拝一間、外壁は素木板張り。拝殿は入母屋造、千鳥破風付、桟瓦葺、桁行3間、梁間2間、1間軒唐破風向拝付、外壁は素木板張り。幣殿は切妻造、桟瓦葺、外壁は素木板張り。
江戸時代後期の特徴でもある繊細な彫刻(唐破風向拝の懸魚は鳳凰、欄間は龍、木鼻は獅子、象、蟇股には中国の故事)が建物全体に施され、平面形式は越後社殿建築の特徴である幣殿と拝殿を明確い分けています。保呂羽堂(本殿・拝殿・幣殿)は江戸時代末期の社殿建築の遺構として貴重なことから平成19年(2007)に村上市指定文化財に指定されています。
山門は入母屋、桟瓦葺、三間一戸、八脚楼門、木部は朱塗り、村上市内に残る数少ない楼門建築の遺構として貴重な存在です。千眼寺の宗派:曹洞宗。山号:普光山。本尊:千手観音。
村上市:神社・仏閣・再生リスト
千眼寺保呂羽堂:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-村上市教育委員会
|
|