・浅貝寄居城は元亀2年、前関東管領で上杉謙信を頼って越後国に落ち延びた上杉憲政の要請を受け、謙信が関東進出する事となり、その拠点として家臣である栗林次郎左衛門尉政頼と大石惣介芳網に命じて築城されました。
元亀2年に発給されたと思われる書状が残されており、それによると浅貝寄居城と推定される「浅貝之寄居」の普請が終了した事から軍役と足軽50人余を配置するようにとの命令が上記の栗林二郎左衛門尉宛てで記されています。
浅貝の地は越後国と上野国との国境である三国峠を控え、三国街道沿いに位置していた事から軍事的に重要視されていました。
特に永禄12年に締結された越相同盟が元禄2年に甲相同盟の再締結により事実上反故された事から小田原北条氏や甲斐武田氏と対峙する事となり、国境付近にある浅貝に拠点となる城郭が求められたと思われます。
天正2年の春に謙信が関東に大規模な遠征を行っており、浅貝寄居城も宿営地や兵站の中継地、軍道の安全確保等、大きな役割を担ったと思われます。
しかし、5月に謙信が一時帰国し、10月に再び関東に侵攻しましたが、大きな成果を得られず、逆に上杉方の関宿城が小田原北条軍の猛攻により落城した事で撤退を余儀なくされます。
その後は越中や能登戦線が拡大し、天正6年に謙信が死去した事から上杉家による大規模な関東遠征は行われなくなっています。
謙信の後継を巡る上杉景勝と上杉景虎が争った御館の乱では、景虎が北条家一族だった事から、景虎支援の為に北条軍が越後国に侵攻、三国峠の麓にある荒戸城や樺沢城が北条方に落とされている事から、浅貝寄居城も接収されたと思われます。その後は記録も無く程なく浅貝寄居城は廃城になったと思われます。
浅貝寄居城は傾斜地を削り出した三郭程度で構成され、現在は約20m四方の本丸が残されています。本丸跡には南方の切岸と残り三方の土塁が残されており、貴重な事から湯沢町指定史跡に指定されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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