・扇町出張陣屋が何時頃築かれたのかは判りませんが、高田藩が当地域を支配する為に設けられたとされます。
高田藩主松平光長は徳川家康の曾孫で、結城秀康の孫に当たる人物でしたが、度重なる福井藩への介入や、光長の後継者を巡り御家騒動(越後騒動)が発生させた事で、幕府から厳しい処分を受け高田藩は廃藩、藩領は取り上げられ天領となっています。扇町出張陣屋は引き続き幕府の天領陣屋として利用されたようです。
貞享2年に稲葉正住が10万3千石で入封すると改めて高田藩を立藩し、扇町出張陣屋も高田藩の支配下に入りました。
稲葉正住は江戸幕府奏者番兼社寺奉行や京都所司代等の要職を歴任し小田原藩10万2千石を父親から相続しましたが、貞享元年に親戚筋の若年寄稲葉正休が大老堀田正俊を暗殺した事で、懲罰的な意味も込めて江戸から遠距離で雪深い高田に配置替えが行われたと思います。
その後、江戸城大留守居役として復権すると老中まで上り詰め、元禄16年に江戸に近い下総佐倉藩に移封となっています。
代わって戸田忠真が6万7千石で高田藩に入封すると、扇町出張陣屋が気に入らなかったのか近隣に島町陣屋を築き、完成後にその機能を遷しています。
因みに戸田忠真も浅野長矩を引き継いだ御馳走役で不手際があったと思われ懲罰的に高田藩に転封となり、宝永6年に罰した徳川綱吉の死去と、柳沢吉保の失脚により、宝永7年に江戸に近い宇都宮藩に移封となっています
代わって、松平定重が野村騒動で関係者を400人以上、死刑者や追放、罷免等を激烈に処分した事が幕府から問題視され懲罰的に高田藩に移封となっています。
跡を継いだ松平定賢が白河藩に移封になった後も、引き続き柏崎周辺が飛地領地となり、理由は判りませんが大久保に陣屋を遷した為、扇町出張陣屋は廃されています。
陣屋の規模は東西20間、南北16間5尺1寸程ありましたが、現在は目立った遺構はなく跡地は喬柏園(旧柏崎公会堂)や末廣稲荷大神、ねまり地蔵付近とされます。
新潟県:城郭・再生リスト
|