・坊城館は鎌倉時代に三浦和田氏の本流とみられる中条氏一族の居館として築かれたと推定されています。
別説としては、隣地に中条氏の居館と思われる江上館がある事から、江上館に本拠地を遷す前の中条氏の居館とも考えられます。
中条氏は桓武平氏越後和田氏の一族で越後揚北衆三浦党の一派とされ、治承・寿永の乱の戦功により和田義茂が奥山荘地頭職を賜ったのが始まりとされます。
その後、和田茂明の代に、当地を分割相続し、後裔が「中条」姓を掲げました。
鎌倉時代末期に有力氏族だった黒川氏が新田義貞に従い、鎌倉攻めに参加し功績を挙げた事で、金城址の領地である奥山中条・金山を賜った為、その支配権を巡り、中条氏と黒川氏の対立が顕著となっています。
応永の乱の際、中条房資は越後守護職の上杉房朝に従いましたが、黒川氏は守護代の長尾邦景方に加担した為、一時窮地に陥り、応永33年には敗北寸前まで追い込まれたものの幕府が邦景を釈免した事で、内乱が終結し難を逃れています。
戦国時代以降は上杉家に従い、慶長3年に上杉景勝が会津に移封になった事からそれに随行した為、当地を去っています。
屋敷の規模は南北60m強、東西80m弱で、複数の大型建物跡や屋敷を区画する溝等が発見されています。館の北側からは多くの轆轤等を使用せず手で練りつくねて造った手捏成形土器が発見されています。
又、身分の高い人物が使用したと思われる青磁や白磁も多数発見されており当館の主が相応の身分だった事が窺えます。さらに、長崎産の石鍋や東濃系山茶碗や皿も少ないながらも確認され、それらの地域と交流や交易があったかも知れません。
施設の多くは柱建ての建物で、多くが屋敷内の東側に集中し、西側は建物跡が少なく馬場のような役割があったと推定されています。屋敷内には時代時代のものが8基以上あり、中には14世紀前半の石組側を持つ井戸が確認されています。
坊城館の跡地は中世の荘園である奥山荘の支配体制を知る上でも大変貴重な存在で、名称「奥山荘城館遺跡」として、城あ館遺跡、信仰関係遺跡、生産遺跡等13箇所と共に国指定史跡に指定されています。
新潟県:城郭・再生リスト
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